張作霖
テンプレート:中華圏の人物 張 作霖(ちょう さくりん、Zhang Zuolin)は、中華民国初期の軍閥政治家で、北洋軍閥の流れを汲む奉天派の総帥。満州の統治者であり張学良・張学銘・張学思の父。字は雨亭。
目次
生涯
馬賊の頭目
1875年、遼東半島の付け根に位置する海城県で生まれる。生家はあまり豊かではない上に、1889年に実父・張有財と死別。獣医の継父から乗馬を習った。気が合わず、家を飛び出したとも言われている。その後吉林省に渡り、馬賊に身を投じた。1895年、営口市高坎鎮一帯で生活。当時の東三省は警察力が弱く、非合法組織が数多く存在した。張はその中でたちまち頭目となり、朝鮮人参や、アヘンの密売で利益を得ていたと考えられる。彼の仲間には後に満州国の国務総理を務めた張景恵などがいた。
日本との関係の始まり
1904年に日露戦争が勃発し、東三省は戦場となった。張はロシア側のスパイとして活動し、日本軍に捕縛されたが、張に見所を認めた陸軍参謀次長・児玉源太郎の粋な計らいで処刑を免れた。この時、児玉の指示を受けて張の助命を伝令したのが、後に首相として張と大きく関わることとなる田中義一(当時は少佐)である。その後は日本側のスパイとしてロシアの駐屯地に浸透し、多くの情報を伝えた。
清朝への「帰順」
日露戦争後の1905年、東三省の統治体制を引き締める為に八旗兵の出身である趙爾巽が同地に派遣された。彼は行政手腕を以て知られ、財政収入の確保に奔走するとともに、地域の治安向上にも努め、馬賊に対しては帰順すれば軍隊に任用する旨を頭目たちに伝えた。張はこうした状況の変化にいち早く対応し、清朝に帰順して2千程度の規模を持つ軍の部隊長となった。この帰順は形式的なものであり、馬賊として広く知られていた張の下には更に多くの馬賊が集まり、隠然たる勢力を形成していった。
北洋軍閥との関係確立
この時期の東三省は、中国各地からの漢族の大量移住と日本・ロシアによる介入のため急速に開発が進んでいた。清朝中央にあって北洋軍を率いる直隷総督兼北洋大臣の袁世凱はこれに目を付け、自らの勢力下に置くことを企てた。袁は事実上の清朝の支配者である西太后に働きかけ、1907年には腹心の徐世昌を東三省総督にすることに成功、更に配下である北洋軍の一部を東三省に送り込んだ。
張は内モンゴルとの境界に近い鄭家屯にあって、地域の安全確保に大きく貢献し、治安の確保に苦心していた徐世昌に認められた。これは張と北洋軍との関係を持ち、更に東三省駐留の北洋軍を吸収する手掛かりとなった。
軍閥として自立
1911年10月に武昌起義が勃発。東三省でも革命勢力が蜂起したが、再び東三省を統治する任にあたっていた趙爾巽は軍事力を行使して鎮圧に成功した。張も兵を率いて多くの革命派を殺害した。翌年には清朝が滅び中華民国が成立したが、東三省においては趙爾巽がそのまま奉天都督となり、旧勢力は温存された。張も革命勢力を鎮圧した功績により中将・陸軍師団長に昇進した。まもなく趙爾巽は満州族で清の遺臣という前歴から都督を辞任し、しばらくして袁の配下である段芝貴が東三省を総管する地位に就くが、他省出身であることから現地とのつながりは薄かった。一方、張は既に発言力を得つつあった在地勢力の利益代表として影響力を強め、東三省での権益拡大を目論む日本とも協力関係を取り付けた。この時期の張は表向きは袁に従っていたが、張の力を恐れた袁は彼を子爵に任じている。
1916年に袁が死去。これを好機と見た張は策略を用いて段を失脚させ、奉天省の支配権を獲得した。さらに勢力を広げ、1919年には黒竜江省・吉林省も含めた東三省全域を勢力圏に置き、「満洲の覇者」として君臨した。彼の率いる勢力は本拠地とした都市の名を採って奉天派と呼ばれ、張は「満洲王」と呼ばれるほどの威勢を誇った。1919年の2月から9月、グリゴリー・セミョーノフの配下ロマン・ウンゲルン・シュテルンベルクが張のもとを訪れ、外モンゴルのボグド・ハーン政権樹立に関する会合の準備を行った。
軍閥闘争と張作霖政権の誕生
その後東三省を足場に中国内地に勢力を伸ばし、1920年の安直戦争では曹錕の直隷派に味方する形で介入した。両軍は、日本と西原亀三のテンプレート:仮リンクで繋がりの深かった国務総理段祺瑞率いる安徽派の駆逐に成功。1921年12月、張作霖は、梁士詒の国務院総理就任を支援した。1921年には張宗昌を任用した。1922年1月、安直戦争の報償分配不均等と親日的なことへの不満が原因で梁内閣が倒れ、同年4月、第一次奉直戦争で張作霖の奉天派は、英米を背景に持つ呉佩孚ら直隷派に敗北し、下野。直隷派が政権を取得した。1921年の秋から冬にかけて、シベリア出兵で敗北したロシア白軍が大量に東三省に脱出し、定住した。これを張宗昌が吸収し、奉天派内で有力軍人となった。
1924年9月、江浙戦争に介入する形で第二次奉直戦争が勃発。10月23日、馮玉祥らが北京政変を起こし、奉天派と馮玉祥軍は呉佩孚率いる直隷軍を挟撃、直隷派は壊滅した。国共合作を成し遂げた国民革命軍も華北へ進撃し、孫文は北京に入るも1925年3月12日に病没。臨時執政・段祺瑞が内閣を主宰することになった。
孫文の抑えが効かなくなった国民党内部で第一次国共合作に対する不満が噴出し内部崩壊してゆく。その状況下で8月20日、国民党内で容共左派の路線をとる廖仲愷が暗殺され、その政敵だった右派の胡漢民も暗殺の首謀者と疑われて失脚。11月23日、西山会議派が分裂。1926年3月20日、中山艦事件で蒋介石が国民党内の中国共産党員弾圧を開始。
一方、臨時総統の段祺瑞を支えるべき張作霖も馮玉祥と対立しており、1926年3月18日、日本と欧米各国が段祺瑞に馮玉祥の排除を要求し、段祺瑞が北京でこの要求に反発する民衆を弾圧したテンプレート:仮リンクが起こった。1926年4月20日、段祺瑞と賈徳耀が事件の責任をとり辞任。その後、中華民国の首相は目紛しく政権交代した。
湖北省へ逃れていた呉佩孚が中央政界への復帰をはかり、張作霖や張宗昌と連合して馮玉祥包囲網である討赤聯軍を組織し、北京進攻した。1926年7月1日、呉佩孚は、第一次北伐を開始した蒋介石の国民政府軍に敗れ、四川省へと逃れた。討赤聯軍に対抗するべく馮玉祥も奉天派の郭松齢と連携した。11月23日、黄花崗七十二烈士林覚民の兄で中華民国臨時約法を制定したことで知られていた林長民を秘書長とし、張作霖・楊宇霆の討伐を図り、自軍を東北国民軍に改組した。しかし、関東軍や吉田茂奉天総領事らは、林長民ら国民党勢力の背後にソ連と共産党の影響を感じ、張作霖を支援して東北国民軍を打倒させることを決定。郭は、関東軍の支援を受けた張作霖の反撃に敗北し、処刑された。
1926年12月、張作霖は北京で大元帥に就任し、自らが中華民国の主権者であることを宣言した。
1927年、国民革命軍が南京、上海を占領した。このとき、南京事件が発生し、欧米勢力の目にも国民革命軍の背後に明らかにソ連が暗躍する姿が映り、国民革命軍を嫌って支持せず、張に好意的な姿勢を取るようになった。張も日本よりも欧米勢力に追随する風を見せた。
張による北京のソ連大使館捜索
1927年3月に起こった南京事件の北京への波及を恐れた列強は、南京事件の背後に中国共産党とソ連の策動があるとして日英米仏など七カ国外交団が厳重かつ然るべき措置をとることを安国軍総司令部に勧告した。その結果、同年4月6日、北京のソ連大使館官舎を奉天軍が家宅捜索し、ロシア人・中国人80名以上を検挙、武器及び宣伝ビラ多数などを押収した。これは奉天にも国民党軍からの共産主義者が浸透し、それによる満洲の共産化運動を防ぐための処置でもあった[1]。張がソ連大使館官舎を家宅捜索したことについては日本を含む列強各国から事前に国際法上の問題がないことの承認を得ていた[2]。また南京事件は共産主義者が起こしたとされ[3]、各国の共産主義に対する警戒心は高まっていた。
ソ連大使館捜索の影響
4月10日、ソ連大使が本国に召還されソ連と中国の国交は断絶した。一方、ソ連は張に圧力をかけるためにモンゴルに大砲、弾薬、毒ガス、航空機を集中させている[4]。北京のソ連大使館捜索によって捕らえられた共産党員は軍法会議にかけられ、北京大学教授李大釗らは処刑された。ソ連大使館で押収された書類には北京において工作活動、あるいは暴力に訴えるための4120名に及ぶ宣伝部員等の名簿やイギリス、フランス、日本に対する反抗的策動を目的とする委員会の調印文書など共産化の陰謀を示すものがあり、その内容はイギリス下院においてもチェンバレン外相から発表され[5]、さらにイギリス国内ではアルコス事件が起き、イギリスとソ連との国交は5月27日[6]断絶している。
張のソ連大使館捜索に続き、4月12日には蒋介石が上海クーデターを起こし共産主義者への弾圧を開始した。
孤立化と敗北
1928年4月、蒋介石は改めて国民革命軍を改編し、欧米の支持を得て再び北伐を開始した。この時は他の軍閥勢力である馮玉祥・閻錫山なども自らの勢力下に加え、万全な態勢を取っていた。張は防戦するが、欧米からの支持を失った。日本政府も張を扱いかねており、山東出兵(第2次)によって済南で蒋介石軍と衝突するものの(済南事件)、蒋介石から「山海関以東(満洲)には侵攻しない」との言質を取ると、張を積極的には支持しなくなった。同年6月4日、国民革命軍との戦争に敗れた張はついに北京を脱出した。
当時の日本の首相・田中義一はなおも張の利用価値を認め、東三省で再起させることを考えていたが、既に満州国の建国計画を進めていた関東軍は張の東三省復帰を望まなかった。
最期
テンプレート:Main 1928年6月4日、張は自らの根拠地である奉天へ向かったが、奉天近くの皇姑站で乗っていた列車を爆破された。張は爆発で重体となり、自動車で私邸に担ぎ込まれたが、まもなく死亡した。
この張作霖爆殺事件は当初から関東軍の参謀・河本大作大佐の策略であるとの説が有力であり、第二次世界大戦終結後に明らかにされたいくつもの証拠により現在では通説となっている。小川平吉鉄道大臣が事件の後始末にあたり、外務省・陸軍省・関東庁の「特別調査委員会」によって事件の概要が判明し、また現地に派遣された峯憲兵司令官の調査により、事件が河本大作大佐の指揮により行われたことが判明。日本政府は事件を曖昧にしたものの、昭和天皇の不快を蒙った田中は総理大臣を辞職した。
なお、小川自身、河本から直接「事件」についての告白を聞いている(小川平吉関係文書)。
一方でロシアの歴史作家ドミトリー・プロホロフにより、スターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴンが計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだとする説も存在している[7](詳細は張作霖爆殺事件ソ連特務機関犯行説を参照)。
その後の東三省
張の支配地域は長男・張学良が継承した。彼は国民政府と結び、さらにアメリカなどと共同して満鉄の利権回復に乗り出した。また父から引き継いだ幕僚のうち、日本と近い関係にある楊宇霆らを粛清した。
1931年に満州事変が勃発、日本軍は東三省全土を制圧し張学良を同地から追放した。張学良に粛清されなかった軍人や現地有力者出身の幕僚層の多く(例えば于沖漢・張景恵)は日本の利権と結びつきを持っており、引き続き日本に従い、翌年の満洲国成立後は要職に就任することとなった。根拠地を失った張学良は国民党政府に庇護を求めた。
脚注
- ↑ 『東京朝日新聞』1927年4月7日付朝刊、F版、2面
- ↑ ソ連は義和団の乱後に調印された北京議定書を破棄していたので、中国側の捜査を拒むことができないとされた。
- ↑ 『東京朝日新聞』1927年3月29日付朝刊、F版、2面
- ↑ 『東京朝日新聞』1927年4月11日付朝刊、E版、2面
- ↑ 『東京朝日新聞』1927年4月13日付夕刊、B版、1面
- ↑ ソビエト連邦の諸外国との外交関係樹立の日付
- ↑ 2005年に邦訳が出版されたユン・チアン『マオ 誰も知らなかった毛沢東』の中で簡単に紹介されていたことからジャーナリズム上でも取り上げられた(産経新聞06.02.28)。
ゆかりの史跡
関連書籍
- 怪傑張作霖 園田一亀 中華堂, 1922.
- 張作霖 白雲荘主人 昭和出版社, 1928. のち中公文庫
- 張作霖爆殺 昭和天皇の統帥 大江志乃夫 1989.10. 中公新書
- 東北軍閥政権の研究 張作霖・張学良の対外抵抗と対内統一の軌跡 水野明 国書刊行会, 1994.8.
- 謎解き「張作霖爆殺事件」 加藤康男 2011.5. PHP新書
- 浅田次郎『中原の虹』(1〜4巻, 講談社, 2006〜07年)
- 澁谷由里『馬賊で見る「満洲」―張作霖のあゆんだ道』(講談社選書メチエ 2008年)
関連項目
テンプレート:CHN1912(北京政府)
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