カイ通
テンプレート:Ambox-mini 蒯通(かいつう、もしくは、かいとう、生没年不明)は、秦末から前漢初期にかけての説客。本名は蒯徹であるが、武帝の名と同じであるので、同じ意味を持つ通の名で後世呼ばれた。
後漢末に劉表や曹操に仕えた政治家・武将の蒯越・蒯良は蒯通の子孫であると伝わる。
経歴
范陽(現在の河北省)の人。陳勝・呉広の乱で挙兵し趙へ攻め込んでいた張耳と陳余が城攻めで苦戦し、北東の范陽へ転戦した際に、地元の弁士として「城主たちは降伏後に報復を恐れているので、印綬を城主に預けて降伏後も報復をさせないように権力を保持させれば皆降伏する」と助言した。これに従った張耳と陳余は一挙に趙の城を降伏させ、秦から趙を奪い取ることに成功した。
楚漢戦争期には、経緯は不明だが漢王劉邦から北伐の命を受けた大将軍韓信の下にいた。韓信が斉王田広を攻めた際に、既に劉邦からの使者・酈食其が田広を降伏させているにも関わらず、劉邦から撤退の命を受けていないと強弁して、韓信に既に軍備を解いている斉に攻め込ませ、酈食其を死に追いやるものの、斉の平定を成功させた。
それから間もなく、韓信を説いて、劉邦に韓信の斉王即位を認めさせ、さらに韓信を自立させ、劉邦(漢)、項羽(楚)に対抗出来る第三勢力の首領にし、ゆくゆくは天下を狙わせようと図るも、韓信はこれに乗らず、このままでは、自分が韓信に劉邦への謀反を勧めたとして、誅殺されかねないとして、発狂した風に装って、韓信のもとから離れた。
紀元前201年、曹参が斉の相国になると、要請されて彼の賓客となった。人材を求める場合に礼を尽くよう勧めたため、斉は安定し曹参は賢相として称えられた。
紀元前196年、韓信が謀反の罪で処刑され、その際に韓信が、「あの時に、蒯通の言うことを聞いていれば、こうはならなかっただろう」と、吐露したことが劉邦に報告されると、劉邦は蒯通も謀反の片割れであるとして捕らえさせた。
劉邦は蒯通を釜で煮殺すよう命じるが、蒯通は「無実の罪で殺されるのは残念だ」とつぶやいた。なぜそう言うのかと訊ねてみると、蒯通は「古の盗賊・盗跖の飼っていた犬が聖人・堯に吠えたのは、堯が不仁の人だからではありません。ただ、主人以外の者だったから吠えたのです。当時、私はあなたを知らなかったのです。それに世の中には、あなたのようになりたいと望む者が大勢いましたが、彼らを全て煮殺せますか?」と答えた。劉邦はこの返答を良しとして、蒯通は釈放された。
その後の蒯通の行方は定かではないが、晩年は戦国時代の遊説の士の策謀を論じ、自らの説を加えたものを述べて八十一首にまとめた論文『雋永』を残したとされている。