山田浅右衛門

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山田 浅右衛門(やまだ あさえもん)は、江戸時代御様御用(おためしごよう)という刀剣試し斬り役を務めていた山田家の当主が代々名乗った名称。ただし、歴代当主には「朝右衛門」を名乗った人物もいる。死刑執行人も兼ね、首切り浅右衛門、人斬り浅右衛門とも呼ばれた。

前史

江戸時代初期、谷衛好衛友親子の「試刀術」(試剣術)を受け継いた試し斬りの名手として、衛友の弟子で幕府旗本であった中川重良が知られていた。専門的な試し斬りを行う人物としては、中川の弟子であった山野永久が始まりとされる。彼は6千人余りの罪人を試し斬りし、供養のために永久寺を建立した。永久の子、勘十郎久英1685年(貞享4年)に「御ためし御用」として正式な幕臣となった。久英の頃から御様御用は試し斬りだけでなく、処刑の際の首切りの役目をも拝命するようになった。しかし久英の子、吉左衛門久豊の跡継ぎであった弟に技量が無く、山野家は御様御用の役目を解かれた。

その後、鵜飼十郎右衛門や、松本長太夫といった山野家の弟子達が御様御用を務めた。その中の一人が、浪人であった初代当主山田浅右衛門貞武である。他の弟子達は貞武より早く没し、子にも役目を継がせなかった。貞武は自らの技を伝えるため、1736年(元文元年)、子の吉時にも御様御用の経験を伝えたいと幕府に申し出、許可された。こうして山田浅右衛門家のみが御様御用の役目を務める体制が出来る。

山田浅右衛門家の性格

御様御用の役目自体は、腰物奉行の支配下にあったれっきとした幕府の役目であったが、山田浅右衛門家は旗本御家人ではない、浪人の立場であった。これは、死の穢れを伴う役目のためにこうした措置がとられたと解釈されがちである。しかし、5代山田浅右衛門吉睦は、腰物奉行臼井藤右衛門に聞いた話として次のような記録を残している。

将軍徳川吉宗の前で山田浅右衛門吉時が試し斬りをし、吉宗がその刀を手にとって確かめるということがあったという。この時、吉時が幕臣になることを申し出ていれば、取り立てられたであろう。しかしその機会を失ったために、浪人の立場のままとなった。これが前例となり、浪人である山田浅右衛門家が御様御用を務める慣習になってしまった。

また、御様御用には技術が必要であるため、世襲の家系では水準を満たさない者が現れる可能性もあり、技術のある者がいる間だけの臨時雇いとして、山田浅右衛門家を浪人に留めたという説もある。その他、旗本や御家人では後述する役目外の収入を得ることが困難となるため、吉時があえて浪人の立場を望んだのではないかという説もある。

山田浅右衛門家は多くの弟子を取り、当主が役目を果たせない時には弟子が代行した。また当主に男子がいてもこれを跡継ぎとせず、弟子の中から腕の立つ者を跡継ぎに選んだ。前述の通り技術が要求されたからであるが、同時に罪人の首を斬る仕事を実子に継がせることへの嫌悪があったともいう。歴代の山田浅右衛門家で実子を跡継ぎにしたのは山田浅右衛門吉時山田浅右衛門吉豊のみである (山田浅右衛門吉時を初代と看做す場合は、1例のみとなる)。弟子は大名家の家臣やその子弟が多く、中には旗本や御家人も存在した。

浅右衛門家の収入

浅右衛門家は浪人の身であり、幕府からの決まった知行を受け取ることはなかった。しかし様々な収入源があり、たいへん裕福であった。1843年(天保14年)の将軍の日光参詣の際には幕府に300両を献金している。一説には3万石から4万石の大名に匹敵するほどであったという。公儀御様御用の際には、幕府から金銀を拝領していた。また幕府だけでなく、大名家などで処刑を行う際にも役目を代行して収入を得ていた。これはさほどの収入ではなかった。

最大の収入源は「死体」であった。処刑された罪人の死体は、山田浅右衛門家が拝領することを許された。これら死体は、主に刀の試し斬りとして用いられた。当時の日本では、刀の切れ味を試すには人間で試すのが一番であるという常識があった[1]。戦国時代はともかく平和な江戸時代においては、江戸市中においての試し斬りの手段としては、浅右衛門に依頼するのが唯一の手段であった。罪人の数が、試し斬りの依頼のあった刀の本数にはとうてい追いつかないため、斬った死体を何度も縫い直して、1人の死体で何振りもの刀の試し斬りを行った。浅右衛門自身による試し斬りに限らず、自ら試し斬りを行う武士に対して、死体を売却することもあった。

試し斬りの経験を生かし、刀剣の鑑定も行っている。5代吉睦の「懐宝剣尺」を代表とする、刀剣の位列も作成している。諸家から鑑定を依頼され、手数料を受け取っていたが、後には礼金へと性質が変化し、諸侯・旗本・庶民の富豪愛刀家から大きな収入を得た。出入りする酒井雅楽頭家立花家といった大名家から、毎年歳暮として米や鰹節を拝領していた。また、こうした人脈を利用して刀剣購入の世話をすることもあった。

さらに副収入として、山田浅右衛門家は人間の肝臓胆嚢胆汁等を原料とし、労咳に効くといわれる丸薬を製造していた。これらは山田丸・浅右衛門丸・人胆丸・仁胆・浅山丸の名で販売され、山田浅右衛門家は莫大な収入を得ていた。また、遊女の約束用として死体の小指を売却することもあったという[2]

山田浅右衛門は、その金を死んでいった者達の供養に惜しみなく使った。東京都池袋の祥雲寺には、6代山田朝右衛門吉昌が建立した髻塚(毛塚)と呼ばれる慰霊塔が残っている。また、罪人の今際の際の辞世を理解するために、3代以降は俳諧を学び、俳号を所持している。

その他の逸話

首を斬る役の同心が実際に斬首すると、刀の研ぎ代として金2分ずつ下される。その役を浅右衛門に譲って首を打たせると、その2分は同心のものになり、さらに首斬りの御用を譲って貰ったというので浅右衛門からも礼金の分け前を貰えるのである。さらに首斬り役をさせてもらうために、浅右衛門の方から普段から付け届けを贈っていた。

浅右衛門の家では、首を斬る者が何人いると聞くと、その人数だけ蝋燭を上げて出役する。一つ首を落とすとその蝋燭の火が一つ消え、全ての蝋燭が消えると御役目が済んだと言った、などと言われたこともある。

明治以後

幕府瓦解後、8代山田浅右衛門吉豊とその弟山田吉亮は「東京府囚獄掛斬役」として明治政府に出仕し、引き続き処刑執行の役割を担った。しかし1870年(明治3年)には弁官達により、刑死者の試し斬りと人胆等の取り扱いが禁止され、山田浅右衛門家の大きな収入源が無くなった。

1880年(明治13年)には旧刑法の制定により、死刑は絞首刑となることが決定された。1882年(明治15年)には刑法が施行され、斬首刑は廃止される。吉豊は1874年(明治7年)に斬役職務を解かれ、吉亮も1881年(明治14年)に斬役から市ヶ谷監獄の書記となり、翌年末には退職している。 こうして「人斬り浅右衛門」としての山田浅右衛門家はその役目を終え、消滅した。

1938年(昭和13年)には浅右衛門の研究者達が、7代山田朝右衛門吉利の孫娘の援助を受け、祥雲寺に「浅右衛門之碑」を建立した。碑の裏面には3代以降の戒名と没年月日、辞世が刻まれている。

歴代山田浅右衛門

以上、浅右衛門之碑に残る山田浅右衛門

登場する作品

テレビドラマ

小説

  • 綱淵謙錠
  • 山田風太郎『警視庁草紙』(ちくま文庫、河出文庫)幕末を経て斬首刑制度がなくなるまで警視庁に勤務する山田浅右衛門が登場。
  • 渡辺淳一項の貌』山田浅右衛門が刃こぼれもせずに首切りが出来た理由を医学的な見地から推測している。
  • 鳥羽亮『鬼を斬る 山田浅右衛門涅槃斬り』(徳間文庫)7代目吉利を主人公とする。
  • 鳥羽亮『絆 山田浅右衛門斬日譚』(幻冬舎文庫)7代目吉利を主人公とする。
  • 大沼弘幸わたなべぢゅんいち『大江戸乱学事始』(電撃文庫)
  • 柴田錬三郎『首切り浅右衛門』(講談社文庫)
  • 中里融司『人斬り浅右衛門 斬妄剣』(学習研究社 M文庫)7代目吉利を主人公とする。
  • 藍上陸『Beurre-Noisette 世界一孤独なボクとキミ』(集英社スーパーダッシュ文庫)山田浅右衛門の一族は現代に血脈及び用いた刀「影無」が受け継がれたという設定で、その子孫である「山田朝右衛門」が登場する。

漫画

参考書籍

脚注

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関連項目

  • 戦国時代に来日したルイス・フロイスは、ヨーロッパでは刀剣の切れ味を試すため動物を用いるが、日本人はそういった方法を信用せず、必ず人間の死体を用いたと記している。
  • 当時、客に心変わりしないという証明のために、遊女が小指を切って渡す風習があった。