オランダ領アンティル
テンプレート:基礎情報 過去の国 オランダ領アンティル(オランダ語: テンプレート:Nl、パピアメント語: Antias Hulandes、英語: テンプレート:En)は、カリブ海の小アンティル諸島にあったオランダ王国を構成する自治領である。2地域に分かれて6つの島が属していたが、1986年にアルバが単独の自治領として分離。ほかの5島でも離脱を求める声が大きくなり、2010年に解体された。5島のうちキュラソー島とシント・マールテン島は単独の自治領となり、残る3島(BES諸島)はオランダ本国に編入された。
地理
1954年の結成当時、オランダ領アンティルは全部で6島(島は県に相当する自治体でもある)からなっていた。6島は、ベネズエラ北西沖に3島、リーワード諸島に3島と、約800km離れた2つの地域に分かれており、それぞれ頭文字をとってABC諸島・SSS諸島と通称されている。
- ABC諸島(ベネズエラ沖)
- SSS諸島(リーワード諸島)
- シント・マールテン島(Sint Maarten)
- シント・ユースタティウス島(Sint Eustatius)
- サバ島(Saba)
オランダ領アンティルの主都は、ABC諸島に属するキュラソー島(クサラオ島)のウィレムスタットであった。ウィレムスタットは大航海時代以来カリブ海地域におけるオランダの拠点であり、港と中心市街は1997年世界遺産に登録されている。
SSS諸島にあるシント・マールテン島(英語名:セント・マーチン島)は小さな島ながら中央に国境線が走るユニークな島として知られている。この島は南部のみがオランダ領であり、北部はフランス領サン・マルタンである。
歴史
前史
カリブ海に位置するこれらの島々は、15世紀末にスペインの支援を受けたヨーロッパの航海者によって「発見」された。SSS諸島が属するリーワード諸島へは1493年、クリストファー・コロンブスが第2回の航海で到達。ABC諸島は1499年スペイン人アロンソ・デ・オヘーダテンプレート:Enlinkとイタリア人アメリゴ・ヴェスプッチによって発見された。しかし、スペイン人たちはこれらの島々に強い関心を示さず、リーワード諸島にわずかな植民を行っただけであった。
17世紀、これらの島々はオランダ西インド会社が占領することとなり、軍事拠点・交易拠点として利用された。18世紀後半には、シント・ユースタティウス島はカリブ海北部で最も繁栄した島として知られるようになり、「黄金の岩」(the Golden Rock)と謳われるようになった。一方でキュラソーとシント・ユースタティウスは、奴隷貿易の島でもあった。
カリブ海の島々の領有権をめぐってはオランダ・イギリス・フランスが激しく争ったが、1814年のロンドン条約でイギリスと、1815年のパリ条約でフランスとの間に領土が確定した。
1815年以降、オランダはABC諸島を「キュラソー島および属島」テンプレート:Enlink(以下、キュラソー植民地)、SSS諸島を「シント・ユースタティウス島および属島」(以下、シント・ユースタティウス植民地)として治めた。1828年、コストの面から両植民地は廃止され、ギアナ植民地(現在のスリナム)とともに単一の「西インド植民地」として編成された。
1845年、西インド植民地は分割され、ギアナ植民地とキュラソー植民地が再設置された。このときシント・ユースタティウス植民地は再設置されず、キュラソー植民地の一部に収められることになった。1863年に奴隷制が廃止された。1865年にはキュラソー行政法が制定され、限られた自治が認められるようになった。1936年に行政法は憲法によって置き換えられたが、政府の改変は表面的なものにとどまり、キュラソー植民地は依然として植民地として支配された。
「オランダ領アンティル」の発足
第二次世界大戦中、オランダ本国はドイツの占領下に置かれ、王室と政府は亡命した。1942年の演説で、ウィルヘルミナ女王はオランダの海外領土に自治の拡大を約束した。また、キュラソー植民地の島々はオランダ政府の同意の下でアメリカ・イギリスによって占領されたが、このことは自治を求める声を高めることとなった。
1948年5月、キュラソー植民地のための新たな憲法が発布され、この領域の名称は「オランダ領アンティル」(以下、アンティル)に改められた。これによりアンティルには1922年のオランダの憲法テンプレート:Enlinkが認める範囲内で最大の自治が認められることになった。普通選挙権が認められたのもこのときである。1948年にオランダの憲法は改正されるが、アンティルの暫定憲法は1951年2月に制定された。1951年3月3日、オランダ領アンティル島嶼法(Eilandenregeling Nederlandse Antillen、略称ERNA)が女王の裁可を受けて制定され、アンティルに含まれる島々に大きな自治が与えられた。この法はその後改定を繰り返しながら、2010年の解体まで存続することになる。
1954年12月15日、オランダ王国憲章が改正され、オランダ本国とギアナ、アンティルは、オランダ王国テンプレート:Enlinkを構成する対等のパートナーであるとされた。
- オランダ王国
- オランダ本国
- オランダ領アンティル
- キュラソー、アルバ、ボネール、シント・マールテン、シント・ユースタティウス、サバ
- オランダ領ギアナ - 1975年、スリナムとして完全独立
国連はこれによって非植民地化が完全なものになったとして、非自治地域リストからアンティルを外した。
アルバの離脱以後
1986年1月1日、アルバ島はアンティルから離脱して単独のオランダ自治領となった。
- オランダ王国
- オランダ本国
- オランダ領アンティル
- キュラソー、ボネール、シント・マールテン、シント・ユースタティウス、サバ
- アルバ
アンティルには5島が残ることとなったが、これらの島々でも「離脱」を求めて国民投票が行われることとなる。1993年から1994年の間に行われた住民投票では5島とも現状維持の方を選んだが、各島の経済格差などから分離を求める声も大きくなっていた。
アンティル解体を求めた連立党派は、1993年に「アンティル再構築のための党」テンプレート:Enlinkとして結集する。この党は2002年に政権の座に就き、与党としてアンティルの解体のために尽力することになる。
解体
テンプレート:Main 2000年に行われた住民投票では、キュラソー島、ボネール島、シント・マールテン、サバ島の4島は現状維持の不支持を選択、シント・ユースタティウス島だけが現状維持を支持するという結果となった。
2004年10月、オランダとアンティルの合同委員会は話し合いの結果、アンティルの解体を宣言した。各島の経済格差などが理由である。2007年に行われた住民投票により、シント・ユースタティウス島以外の4島がアンティルの解体に賛成し、アルバ島のように独自のオランダ自治領になるとの票が多数を占めた。
2008年12月15日の円卓会議の結果、アンティルの解体が決定され、2010年10月10日に解体が実施されるというスケジュールがオランダ議会で承認された[1][2][3]。
2010年10月10日、アンティルは解体された。キュラソー島とシント・マールテンは単独の自治領となり、オランダ王国の構成国(オランダ本国、アルバと対等な関係を持つ)となった。残るボネール島、シント・ユースタティウス島、サバ島の3島(BES諸島)は、オランダ本国に編入され、基礎自治体(ヘメーンテ)相当の特別自治体の地位が与えられた。これにより、オランダ王国は以下のような構成を持つこととなった。
- オランダ王国 テンプレート:Enlink
- オランダ本国 テンプレート:Enlink
- (ヨーロッパ・オランダ)
- (BES諸島)
- ボネール、シント・ユースタティウス、サバ
- アルバ
- キュラソー
- シント・マールテン
- オランダ本国 テンプレート:Enlink
ただし、オランダ本国に組み込まれる3島がEUの領域に組み込まれるのは、次のステップとなる。
政治
元首はオランダ国王であり、その代理として総督が置かれていた。知事は自治政府の代表であり、閣議を開催する他、行政府を取り仕切っていた。議会はオランダ領アンティル全体のもの(州議会)の他、各島にも地方議会(県議会)がある。
オランダはEU加盟国ではあるが、オランダ領アンティルはアルバと共にEUの海外領域でありEU法は適用されていなかった。この地位を、EU法が適用される外部地域へ格上げしようとする動きがあったが、ローマ条約にはそのための規定がなかったため、リスボン条約発効以降に先送りされていた。
ベネズエラとの間に領海問題を抱えていた。
経済
主産業は主にラム酒。キュラソー島は、オレンジのリキュールであるキュラソー発祥の地としても知られている。
交通
- ハト国際空港、キュラソー島。
- レイナ・ベアトリクス国際空港、アルバ島。
- フラミンゴ空港、ボネール島。
- プリンセス・ジュリアナ国際空港、シント・マールテン島。
- F・D・ルーズベルト飛行場、シント・ユースタティウス島。
- ファンチョ・E・ヨラウスクィン飛行場、サバ島。
住民
混血のムラートが84%を占め、残りはヨーロッパ系白人などである。
キュラソー島とボネール島ではオランダ語やスペイン語が混ざり合ったパピアメント語を話し、スペイン語も通じる。シント・マールテン島はオランダ語を母体にしたクレオール語。シント・ユースタティウス島では英語も話す。2007年よりオランダ語にくわえ、話者数が多いパピアメント語、英語も公用語となった。
宗教はカトリックが87%を占め、残りはプロテスタントである。
スポーツ
ABC諸島のほうでは近くのベネズエラ同様に野球が盛んに行われており、特にキュラソー島やアルバ島からは、アメリカ合衆国のメジャーリーグベースボールでプレイする選手を輩出している。キュラソー島出身のアンドリュー・ジョーンズは、テンプレート:Byからテンプレート:Byまで10年連続でナショナルリーグのゴールドグラブ賞を受賞する好守の外野手として知られ、また打撃でもテンプレート:Byには同リーグ最多本塁打・最多打点の二冠を獲得した。2013年シーズンからは日本プロ野球の東北楽天ゴールデンイーグルスにてプレイする。アルバ島出身のシドニー・ポンソンは、投手として通算298試合に登板して91勝113敗、テンプレート:Byには17勝12敗・防御率3.75という成績を収めた。その他、日本プロ野球でも、テンプレート:Byのヤクルトスワローズの日本一に貢献したヘンスリー・ミューレンスやテンプレート:Byに本塁打日本記録となる60本を達成したウラディミール・バレンティン(いずれもキュラソー島出身)らがプレイした経験を持つ。
国際大会では、ワールド・ベースボール・クラシックやオリンピックのようにオランダ領アンティルの選手と本土の選手とが合同でオランダ代表を結成する場合と、IBAFワールドカップのように本土とは別に独自にオランダ領アンティル代表を結成する場合とがある。テンプレート:By3月のワールド・ベースボール・クラシック第2回大会には前者の合同オランダ代表で出場し、メジャーリーグベースボールのスター選手を多く揃え優勝候補ともいわれていたドミニカ共和国代表を2度にわたって破る大波乱を起こした。テンプレート:By3月のワールド・ベースボール・クラシック第3回大会では、強豪の韓国代表、キューバ代表を破るなど、初のベスト4に進出した。
一方、SSS諸島のシント・マールテン島で盛んなのはクリケットである。クリケットの国際大会の場合は野球とは異なり、オランダ代表に入ることもなければ、独自にオランダ領アンティル代表として出場することもない。そのかわり、ジャマイカやトリニダード・トバゴなどの周辺諸国と合同で西インド諸島代表を結成して大会に臨む。西インド諸島は、国際クリケット評議会によってテストマッチという形式の試合を行うことを認められた“フルメンバー”と呼ばれる10か国のうちのひとつである。オランダ領アンティル解体後は、シント・マールテン島のみが西インド諸島代表に参加することになっている。
陸上競技では、男子短距離走のチュランディ・マルティナが活躍。100メートル競走では、2007年のパンアメリカン競技大会リオデジャネイロ大会で金メダルを獲得、2008年の北京オリンピックでは4位入賞を果たした。サッカーでは、本国のアヤックス・アムステルダムでプレイするフルノン・アニータなどを輩出している。
国際オリンピック委員会は2011年7月8日に開いた総会でオランダ領アンティル五輪委員会の承認を取り消した。これによって同地域の選手は2012年のロンドンオリンピックの出場資格を失ったが、その代わりにIOCは個人の資格で「独立参加選手団」による出場を認めた[4]。