ロン・カーター
ロン・カーター(Ron Carter, 1937年5月4日 - )は、アメリカ合衆国のジャズ・ミュージシャン、ベース奏者。元ニューヨーク市立大学シティカレッジ教授。アフリカ系アメリカ人。
バイオグラフィ
1937年、アメリカミシガン州出身。1959年、イーストマン音楽学校卒。1961年、マンハッタン音楽学校修士課程修了。2004年、バークリー音楽大学より名誉博士号を授与される。ニューヨーク市マンハッタン区ハーレムにあるニューヨーク市立大学シティカレッジ音楽学部にて、20年以上教壇に立つ。
バッハなどに傾倒し、初めチェロを習い、のちにコントラバスに転向。クラシックのコントラバス奏者を目指して1日8時間に及ぶ猛練習をするも、人種差別の壁もあってオーケストラに入団できなかった。一方でジャズベーシストとしての活動を開始し、1959年にチコ・ハミルトンのグループでプロデビュー。また、ポール・チェンバースやレイ・ブラウン、サム・ジョーンズなどの名ベーシストとの交流の中で自己を確立し、キャノンボール・アダレイ、ボビー・ティモンズなどのグループに参加。その柔軟で奔放なプレースタイルが、モード・ジャズの表現を模索していたマイルス・デイヴィスの目にとまり、ポール・チェンバースに代わるベーシストとして抜擢される。他のメンバーが繰り出すモード・イディオムラインに対し、クロマッチックな音選びで絶妙の相性を見せたカーターは、1960年代のマイルス・ミュージックの屋台骨を支える重要な役割を果たす。
ジャズ界の趨勢がモード・ジャズからフュージョンに移行しつつあった1960年代終盤、マイルスのグループを離れ[1]、以降、主に著名ミュージシャンのセッションのサイドマンとして無数のレコーディングに参加。70年代にはハービー・ハンコックによるV.S.O.P.クインテットやハンク・ジョーンズによるグレイト・ジャズ・トリオなどのバンドにも名を連ねている。
一方で、ピッコロ・ベースという新楽器を開発[2]し、ソロ楽器としてのベースの可能性を追求した。ピッコロ・ベースはコントラバスより小さくチェロより大きい楽器で、コントラバスの4本の弦のうちE弦(最低音の弦)を廃して、最高音であるG弦の上にさらに4度上のC弦を配したもの[3]であり、チェロ同様に椅子に座って演奏する[4]。
以降、ベース、ピッコロ・ベースを持ち替えて多くのセッションをこなす。ピッコロ・ベースにおいては自己の9人編成コンボであるロン・カーター・ノネットの結成、そしてベースでもグレート・ジャズ・トリオをはじめとするレギュラーグループや、トミー・フラナガン、ローランド・ハナ、シダー・ウォルトン、ゴンサロ・ルバルカバ、ハンク・ジョーンズ、ジム・ホール、ハービー・ハンコック、ヒューバート・ロウズといった名手と競演を重ねる。また、アントニオ・カルロス・ジョビンのセッションにも参加したことから、ボサノヴァ音楽への傾倒と理解も厚い。
ロン・カーターのベースは、極めて個性的なその音色と音の運びに特徴がある。音色については、一音聴いただけで「ロンだ」とわかるほどの強烈な個性であるが、これは、ラベラ社製のブラックナイロン弦[5]とバーカス・ベリー社 のピックアップを使っている時代に印象づけられたものである。マイルスバンド参加前の1960年代初期のジャキ・バイアードのバックを勤めていた時期は、個性が感じられない演奏をしている。一方、音程がよくない、高音域が得意でない、クラシック奏者を目指していた割にはアルコ(弓)奏法が不得手など、楽器演奏技術に対しては低い評価もあり、アメリカのジャズタイムズ誌では「最も過大評価された音楽家」として辛辣な批評を受けたこともある。
日本でも非常に人気の高いジャズベーシストであり、来日経験も極めて豊富である。日本人ジャズメンとの競演も多く[6]、また、アメリカ人のみによるセッションでも日本のレコード会社の企画で製作されることも多い。こういった、日本人による彼の芸術への理解度の高さもあってか、本人もなかなかの親日家である。また過去には1980年代にテレビで放映されたサントリーホワイトのCMでハービー・ハンコックらと共演したり、栄養ドリンクのテレビCMに親子で出演もしている。
テレビ出演
- 地球テレビ エル・ムンド (NHK BS1):2011年6月15日23:00~23:50放送
脚注
外部リンク
- Ron Carter Official Website (英語) - 公式サイト
- La Bella Strings (E. & O. Mari)(英語) - ラベラ弦公式サイト