独裁者
独裁者(どくさいしゃ)とは、独裁政治を行う支配者。独裁者が元首である国は独裁制と呼ばれる。
語義
テンプレート:Main 「独裁」は古代ローマの独裁官を語源とする[1]。英語ではdictatorと称されるが、語源は、共和政ローマの官職の一つ、独裁官(どくさいかん、羅: dictator、ディクタートル)である。
独裁者に関する歴史的考察
古代ギリシアの諸ポリスでは重要な事項を民会で決定したが衰退したため、プラトンは民主政は衆愚政治に陥る可能性があると批判した。そこで、プラトンは著書『国家』の中で哲人王による独裁政治が理想であると主張した。[2]
共和政ローマの官職の一つ独裁官は、国家の非常事態に任命され、6ヶ月間に限り国政を一人で操ることができた。しかし紀元前44年、ガイウス・ユリウス・カエサルは自らを終身独裁官に任命したことにより実質上共和政は変質し、後に一人支配が常となる元首政(プリンキパトゥス、いわゆる帝政ローマ)が誕生する礎となった。
近代以降では、フランス革命後のマクシミリアン・ロベスピエールらが恐怖政治を行って独裁者と呼ばれた。また、ナポレオン・ボナパルトが軍事政権を樹立し独裁者と呼ばれた。恐怖政治における独裁については、反革命への弾圧というフランス革命の理念に反する行為を弾圧するという建前によって正当化された。また、ナポレオンは皇帝就任に際しては国民投票の実施、賛同によって正当化しており、双方とも民主主義理念の名の下に独裁を是認した。
1875年、カール・マルクスは、ゴータ綱領批判において、ブルジョワ社会での議会制民主主義は、少数であるブルジョアジー勢力にのみ、政治参加が認められており、多数であるプロレタリアートに政治参加の道が開かれていないこと、そのために、プロレタリアートが疎外状態にあるとして、資本主義社会から共産主義社会へ移行する過渡期においてプロレタリア独裁が必要とした。
このプロレタリア独裁の概念はレーニンによって、独裁が「直接に暴力に立脚し、どんな法律にも拘束されることのない権力」と定義された。そのことによって、マルクス・レーニン主義を掲げる多くの社会主義国の憲法では「独裁」を記載している。[3]
20世紀初頭、ベニート・ムッソリーニはファシズムを提唱し、「選挙で25%以上の得票率を得た第一党が議会の議席の3分の2を獲得する」という選挙法改訂によって独裁権を確立した。ただし、ムッソリーニは選挙法を改める前に、ローマ進軍によるクーデターを実施し、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世にファシスト党に権力を譲渡させたことを前提としており、完全な選挙による独裁ではない。
また、アドルフ・ヒトラーについては国家社会主義と指導者原理を提唱して民主主義を批判し、権力を獲得したが、ヒトラーにおいても権力獲得前にミュンヘン一揆によってクーデターによる政権奪取を試みたこと、また、大統領ヒンデンブルクによって首相に就任した後の議会解散におけるドイツの国会議事堂放火に際して、共産党に原因があるとして、共産党議員の議席を無効化した上で全権委任法を通しており、独裁者になるまでにすべての面において民主的であったわけではない。なお、ヒンデンブルク死去後の総統就任による独裁政治の完成に際しては、形式的な国民投票を実施することで正当化した。
独裁と専制の違い
独裁と専制の違いは諸説あるが、独裁においては前述したナポレオン、ヒトラーの事例などからもわかるように、選挙、国民投票、議会の議決などを不正手段や暴力的手段を用いる要素がありながらも、民主的手続きを踏んだことによって権力を正当化する要素が強い。これに対し、専制においてはジェームズ1世、ルイ14世などの事例にもあるが、権力の正当性を王権神授説としており、民主的手続きとは無関係の形で権力が正当化される要素が強い。
なお、独裁者が国民の支持を失って以降も政権を維持しようとしたり、地位の世襲を目論んだ場合は、事実上専制君主と化す事を示している。ドイツ・ワイマール時代の政治学者カール・シュミットは、独裁制と専制政治の違いを「具体的例外性」に見いだしている。シュミットによると、独裁政は例外的事態であり、この具体的例外性を失えば専制政治に転化することになる。
脚注
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 後世においては『法律』において微修正し、寡頭制的な要素による政治を理想とした
- ↑ ヨシフ・スターリン、毛沢東の例によって社会主義国は個人崇拝と誤解する向きがある。ただ、これらは戦時における混乱や非常時における政治闘争の一環として行われている経緯もあること、スターリン、毛沢東以後の政治指導者が共産党の一党独裁ではあっても一人の意思によって政治が動いている状況にはないことから、議論が分かれているところである。