伊治呰麻呂
伊治 呰麻呂[注 1](これはり/これはる の あざまろ、生没年不詳)は、8世紀後半の日本、奈良時代の東北地方で活動した蝦夷の指導者。姓は公。官位は外従五位下・上治郡大領。
宝亀11年(780年)に伊治城[注 2]で宝亀の乱(伊治呰麻呂の乱)を起こした。
姓(伊治・上治)の読み方
史料に読み方が記されていなかったため、後世「伊治」は長らく音読みで「いじ」と読まれてきた。また、「呰麻呂」は『続日本紀』に上治郡の大領に就任していたと記されているが、ここに見る「上治郡」が後世のどこに当たるのか(「伊治郡」のことではないか、後世の栗原郡と同定できないか、等々)は明らかでなかった。ところがそののちテンプレート:いつ、「此治郡」という表記のある木簡が出土したため、「此」と「伊」は訓読みで「これ」の同音異字で通じ、「上治」を「此治」の誤記とする説が優勢となり、現在では「これはり」または「これはる」との読みが有力説となっている。
生涯
伊治呰麻呂は陸奥国伊治郡(後世の栗原郡〔現在の宮城県栗原市全域と大崎市の一部にあたる〕に相当する地域と推定される)の有力者とされる。
当時、大和朝廷(ヤマト政権、中央政権)と北方の蝦夷の間には連年交戦が続いており、伊治郡はその最前線に位置していた。伊治呰麻呂は夷俘の出身であったが、国府に仕えて上治郡(伊治郡か)の大領となり、出羽国の管轄にあった志波村の蝦夷征討に功を挙げ、宝亀9年(778年)にヤマト王権より外従五位下に叙せられた[1]。陸奥国按察使の紀広純は初め呰麻呂を嫌ったが、のちには大いに信頼を寄せるようになった。しかし、同じ俘囚出身である牡鹿郡大領の道嶋大盾は、(卑しい)夷俘の出であるとして呰麻呂を見下し侮ったため、呰麻呂は内心深く恨んでいたという[2]。
宝亀11年(780年)新たな城柵として覚鱉城(かくべつじょう)が築かれる際、既成の城柵である伊治城[注 2]を紀広純が訪れたが、この機会を捉えて呰麻呂は俘囚の軍を動かして反乱を起こし、まずは大盾を殺し、次に広純を多勢で囲んで殺害した。陸奥介の大伴真綱(おおとものまつな)だけが囲みを破って多賀城に逃れた。城下の住民は多賀城の中に入って城を守ろうとしたものの、真綱が陸奥掾の石川浄足(いしかわのきよたり)とともに後門から隠れて逃げたため、住民もやむなく散り散りになった。数日後、蝦夷軍は城に入って略奪行為を働き、焼き払って去った。[2]
呰麻呂の行動記録は、この伊治城における反乱の後、途絶する。多賀城の略奪は反乱の直接の結果であったが、その指揮官が誰かについて史料には記されていない。呰麻呂が多賀城を落とした可能性も高いが、別の将による可能性も否定できない。ただちに中央政府は中納言・藤原継縄[3]、次いで参議・藤原小黒麻呂[4]を征東大使に任命して征討軍を出動させたが、なんら成果は得られず、戦闘は拡大した。この後の呰麻呂の動静については、史料に記載無く不明である。もし、呰麻呂が中央政府軍に敗れて殺されるようなことがあれば『続日本紀』が記したであろうことから、記録の欠落は呰麻呂がそうした最期を迎えなかったことを示唆する。なお、反乱の結果、伊治城とその周辺地域は中央政府による蝦夷経営の支配を何年かの間は逃れたものの、やがては再び制圧された。
脚注
出典
参考文献
- 宇治谷孟『続日本紀 (下)』講談社学術文庫、1995年テンプレート:Japanese-history-stub
引用エラー: 「注」という名前のグループの
<ref>
タグがありますが、対応する <references group="注"/>
タグが見つからない、または閉じる </ref>
タグがありません