後主 (北斉)
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テンプレート:基礎情報 中国君主 テンプレート:Wikisourcelang テンプレート:Wikisourcelang 後主(こうしゅ)は、北朝北斉の第5代皇帝。武成帝高湛の長男。
生涯
河清4年(565年)、父帝から皇位を譲られて即位する。天統4年(568年)には武成帝の死によって親政を開始するものの、暗愚であり、和士開や高阿那肱、穆提婆といった奸臣たちを信任して国力を大きく衰退させた。重臣・王族たちが彼らの讒言によって殺され、特に斛律光を粛清して、蘭陵王高長恭を自殺に追い込んでからは軍事力が衰退し、それまで軍事的に圧倒的な有利さを保持していた陳にさえ国土を侵食される羽目になる。
その有様を見た北周の武帝宇文邕は出兵を決意する。武平6年(575年)に北周軍の侵攻が始まると瞬く間に国土は侵食された。承光元年(577年)に押し付けるような形で長男の高恒に譲位、国内を逃げ回るものの結局は部下に裏切られ、3月に青州で幼主高恒ともども北周軍に囚われて北斉は滅亡した。その後、北周から温公に封ぜられるものの、建徳6年(577年)に一族もろとも殺害された。
逸話
- 自ら琵琶を弾いて「無愁の曲」を作った。近侍が一斉に和したので民間からは「無愁天子」と呼ばれた[1]。
- ある王に「任地にいた時、何が楽しかった?」と聞くと「蠍をたくさん入れた穴の中に人を入れてもがき苦しむ様を見るのが楽しかった」と言ったので、同じようなことをさせると、その王を叱りつけた。「なぜ、このように面白いことを隠しておったのだ」と[1]。
- 陥とされた平陽を奪還しに行った時、あと一押しで落とせるところまでいったが、馮淑妃と共に落城する様を見物しようと攻撃を止めさせた。馮淑妃の化粧に時間を取られたので、結局は落とすことができなかった[1]。
- 陳に侵略された時はさすがに顔色は失ったものの、臣下に「まだ淮河以南を失われたにすぎません。黄河以南を失われたとしても我が国には亀茲くらいの国力があります。一生遊び暮らすには充分ではありませんか」といわれて、そのまま納得してしまった[1]。
宗室
后妃
子
- 幼主高恒
- 東平王高恪
- 高善徳
- 高買徳
- 高質銭
脚注
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- ↑ 以下の位置に戻る: 1.0 1.1 1.2 1.3 『通鑑記事本末』(渡辺省のホームページより)