堺公方

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堺公方(さかいくぼう)は、大永7年(1527年)から享禄5年(1532年)にかけて、顕本寺を本拠にして京都はじめ畿内を支配した政権。

室町幕府12代将軍足利義晴を擁しながら敗れた管領細川高国近江に追い落とした細川晴元が、将軍の・義維(後の足利義冬)を擁立したもの。晴元の有力被官・三好元長(海雲)なども、その後ろ盾であった。

沿革

永正の錯乱から続く細川氏管領職争いの一端で、大永7年の桂川原の戦いに敗れた幕府軍の管領・細川高国は、12代将軍の義晴と供に京都を脱出して近江坂本まで逃れた。この時点で、室町幕府の政治機構は実質的に崩壊した

樹立

代わって、高国と管領職を争っていた細川晴元が、義維を擁した形で和泉国を拠点とし、京都への支配を行うようになったため、京都の公家や権門から「堺公方」「堺大樹(さかい たいじゅ)」と呼ばれた。堺の政権は、奉公人・管領代・山城守護代・山城郡代を駆使する官制上の頂点にあり、将軍跡目のように君臨した。実際、義維は従五位下左馬頭に任じられており、将軍就任に向けての準備が整いつつある政権であった。

その堺公方内部は、三好元長のほか山城を掌握していた柳本賢治茨木長隆摂津の有力国人衆との合従連衡政権であった。ところが、三好海雲が柳本賢治と山城守護代を巡って争ったために、結束にヒビが入る。その間、反撃を試みた細川高国中嶋の戦い大物崩れを経て、滅ぼす事に成功したが、かえって摂津国人衆らと阿波国人衆との権力闘争を激化させてしまうのである。

その理由が、摂津衆や阿波衆の主筋に当たる晴元の変心である。この晴元が、それまでの最大の功労者ともいえる三好海雲を危険視し、柳本たち摂津衆に肩入れし始める。しかも自身は、堺政権を放り出して義晴将軍派に転身、管領の座に転がり込んでしまったのである。

崩壊

摂津国人衆は、堺公方が本拠に使用していた顕本寺の宗派と対立関係にあった一向一揆勢と結託し、堺に対抗。享禄5年6月20日(1532年8月1日)、一向一揆勢に顕本寺を攻めさせたため、三好元長は自害、堺の政権は崩壊した。

この時義冬は、もとの阿波国平島に逃げ戻ったため平島公方と呼ばれた。後に第14代将軍となる足利義栄は義冬(義維)の子である。

「堺幕府」論

歴史家の今谷明が、朝廷の改元(大永→享禄)を無視した文書が存在することに注目。公文書の発給状況を分析し、当時の室町幕府は崩壊状態にあり、堺公方と呼ばれた堺の政権は事実上の「堺幕府(さかいばくふ)」である、と論じた(『室町幕府解体過程の研究』)。しかし、義維は征夷大将軍の宣下を受けていない以上、堺の政権も地方政権にすぎないとの異論がある。

関連項目