伊号第一二潜水艦
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艦歴 | |
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計画 | 1942年度(マル追計画) |
起工 | 1942年11月5日 |
進水 | 1943年8月3日 |
就役 | 1944年5月25日竣工 |
その後 | 1945年戦没 1月31日喪失認定 |
除籍 | 1945年8月10日 |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:2,390トン 常備:2,934トン 水中:4,172トン |
全長 | 113.7m |
全幅 | 9.55m |
吃水 | 5.36m |
機関 | 艦本式22号10型(過給器付き)ディーゼル2基2軸 水上:4,700馬力 水中:1,200馬力 |
速力 | 水上:17.7kt 水中:6.2kt |
航続距離 | 水上:16ktで22,000海里 水中:3ktで75海里 |
燃料 | 重油:917t |
乗員 | 112名(潜水戦隊司令部を含む)[1] |
兵装 | 40口径14cm単装砲1門 25mm機銃連装2基4挺 魚雷発射管 艦首6門 53cm九五式魚雷18本 |
航空機 | 零式小型水上偵察機1機(計画)[2] (射出機1基) |
備考 | 安全潜航深度:100m |
伊号第一二潜水艦(いごうだいじゅうにせんすいかん)は、大日本帝国海軍の潜水艦。艦級は巡潜甲型改1であり、同型艦はない。通商破壊戦に従事し、貨物船1隻を撃沈したが、1945年1月15日、マーシャル諸島近辺で消息不明となった。
概要
1942年(昭和17年)のマル追計画では建造された巡潜甲型の1隻。戦時急造のため計画番号をS35Bと改めて製作が容易だか低出力の主機が搭載された。そのために水上速力は17.7ノットに低下している。同様にモーターの出力も半減となり、水中速力は6.2ノットに落ちた。反面巡潜甲型に比べて燃料搭載量が50t程度増えており、航続力は増大している。竣工が昭和19年であることから22号電探を装備していたと推定されるが、写真が1枚も残っておらず確認はできていない。
1944年(昭和19年)5月25日に竣工した本艦は就役訓練の後、通商破壊戦のために呉を出港し、北米大陸西岸、ハワイ、タヒチ、マーシャル諸島方面へ向かった。10月に貨物船1隻を撃沈したが、1945年1月15日マーシャル諸島近辺での連絡ののちに消息不明となる。アメリカ側にも記録がなくその最後は不明である[3]。艦長以下114名全員戦死。
艦歴
- 1942年(昭和17年)11月5日 川崎重工業神戸造船所で第620号艦として起工
- 1943年(昭和18年)8月3日 進水
- 1944年(昭和19年)5月25日 竣工、横須賀鎮守府籍。第11潜水戦隊に編入
- 10月4日 第6艦隊直卒となる。呉を出港
- 10月30日 貨物船1隻撃沈
- 1945年(昭和20年)1月15日 マーシャル北方で敵に発見されたとの情報を最後に消息不明[3]
- 1月31日 中部太平洋方面で沈没と認定
- 8月10日 除籍
歴代艦長
艤装員長
- 工藤兼男 中佐:1944年3月5日 -
艦長
- 工藤兼男 中佐:1944年5月25日 -
脚注
- ↑ データは『写真 日本の軍艦vol.12』より。『艦長たちの軍艦史』によると114名。
- ↑ 実際の水上機の搭載はないと竣工時期から推定される。
- ↑ 3.0 3.1 『写真 日本の軍艦vol.12』による。『日本潜水艦戦史』によると1月5日以降消息不明、1月15日ハワイ東方沖で船団を護衛中の掃海艇「アーデント[II]」(AM340)と哨戒フリゲート「ロックフォード」(PF48)が共同攻撃により潜水艦を撃沈したと報告しており、これが伊号第一二潜水艦である可能性が高い。
参考文献
- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第12巻 潜水艦』光人社、1990年。 ISBN 4-7698-0462-8
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9