朝倉景冬

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朝倉 景冬(あさくら かげふゆ、生年不詳 - 明応4年9月20日1495年10月8日))は、室町時代末期から戦国時代前期にかけての武将。幼名は孫四郎、通称は修理亮遠江守。父は朝倉家景。兄弟に孝景光玖経景。子に景豊、娘(朝倉教景室)、娘(堀江景実室)、娘(鳥羽景富室)、娘(青蓮華近江守室)。法名は芳永宗弼。

元は越前国守護斯波氏の軍奉行であった。越前守護斯波義敏と守護代甲斐常治との間に起こった長禄合戦や、応仁の乱などで兄孝景と共に活躍する。特に応仁の乱での活躍はめざましく、『朝倉始末記』などによれば、京童から「朝倉の小天狗」といわれた。兄の死後は、敦賀郡司として甥の氏景をよく補佐し、越前統一に助力した。

長享元年(1487年)の10代将軍足利義尚近江六角高頼征伐(長享・延徳の乱)の際は、先陣として142騎と兵1500を率いて近江坂本に出陣した(但し、当主朝倉貞景斯波義寛との同陣を避けて敦賀に留まった)。延徳2年(1490年)2月には足利義政東山山荘仙洞御所を移植する作業を務めた。

明応4年(1495年)に死去。子の景豊が敦賀郡司職を継いだ。

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