一色満範

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一色 満範(いっしき みつのり、応安元年/正平23年(1368年)- 応永16年1月6日1409年1月25日))は一色氏の当主、一色詮範の子。兵部少輔右馬権頭修理大夫。弟に土屋氏に養子入りした範貞(のりさだ)、子に一色持範一色義範(義貫)一色持信がいる。

生涯

元服に際して将軍足利義満より偏諱を受けて満範と名乗る。

父・詮範とともに明徳の乱で軍功を示め、幕府内での一色氏の地位を高め、一色氏の重代の領国である若狭守護・三河守護に加え明徳3年(1392年)正月には丹後守護職にも補任された。

丹後の守護所である加佐郡の八田の館に居住したが、父とともに守護館の背後にある建部山に建部山城(舞鶴市)を築城した。応永の乱では、大内弘茂を打ち滅ぼし、幕府中枢の地位をも確固たるものとした。満範の活躍により、畿内周辺の三ヶ国を有する有力守護大名となり、一色家の最盛期を築いた。

応永13年(1406年)6月、父・詮範が死去し、満範が家督を継いで間もない10月1日、京都にある満範の屋敷で三河国守護代小笠原明鎮・長頼父子が捕らえられ、丹後国石河城に監禁される事件が起こる。更に2年後の応永15年(1408年)、明鎮の弟(または叔父)小笠原長正が三河国幡豆郡で一色軍と交戦し、12月26日一族郎党とともに敗死した。

満範は直後の応永16年(1409年)1月6日に没し、法号を慈光寺殿とした。監禁されていた明鎮父子はその2ヶ月後の3月に切腹を命じられ、一色氏の守護代として勢力のあった小笠原氏は満範の死と時を同じくして滅亡した。

関連項目

テンプレート:丹後一色家