小泉城

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小泉城(こいずみじょう)は現在の群馬県邑楽郡大泉町にあった。 築城は、延徳元年(1489年)。現在では城跡(内堀の全部と外堀の一部および土塁)のみが残っており、公園として整備されている。

歴史・沿革

結城合戦で敗れた結城持朝の息子の持光(後の富岡主税介直光)が後に足利成氏から邑楽郡に所領を与えられて延徳元年(1489年)に建設した富岡城が後に小泉城と呼ばれるようになったと言われている。

その後、富岡一族は古河公方上杉謙信後北条氏などの勢力下で活躍し、富岡氏から小泉氏が分かれる。しかし、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の関東攻めの際、家臣浅野長政らに攻められて落城し、廃城になった。

なお、残っている外堀と内堀の間には「庚申」と彫られた楕円形の石柱を数十以上見ることができるが、これは庚申信仰が盛んだった江戸時代のものと考えられている。

現在では、残っている内堀、外堀ともに、堀はすべて護岸工事され、また、 城跡の一部では古墳が復元されている。「庚申」と彫られた楕円形の石柱が 多数存在するのは、忠霊塔の西側である。内堀の東側には公園が配置されており、 城の内公園と呼ばれている。

構造

大泉町には山はなく、比較的標高の高い(33m近辺)場所に作られた平城。標高33mというと環状八号線東京都大田区田園調布世田谷区尾山台近辺を通過するあたりの標高と同程度である。

戦国時代末期、後北条氏の傘下の時代に改築された城の遺構が現在残っているもの。 本丸の北東側や南西側の隅に2層から3層程度の隅櫓があったとも伝えられ、その場所は土が盛られて一段高くなっている。

関連項目

外部リンク