趙範

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趙 範(ちょう はん、生没年不詳)は、中国後漢末期の人物。

概要

桂陽太守。『正史三国志』においては韓玄金旋劉度と同じく、侵攻して来た劉備軍に降伏した[1]。劉備軍の趙雲に亡き兄の妻樊氏を薦めた。しかし、趙雲は周りの者に「趙範は追い詰められて下っただけだ。また天下にも女は少なくない」と言って、拒否した逸話が残る。後に、曹操の下へ逃亡した[2]

演義での趙範

小説『三国志演義』においては、趙雲との関係で様々な脚色がなされている。趙雲と遠縁で、同じ常山郡真定県(現/河北省石家荘市正定県)の出身ということにされている。

荊州南部4郡の占拠を狙う劉備軍に対し、鮑隆陳応の二人の将軍を差し向け一旦は対抗したものの、大敗し降伏する。このためその後、同姓の誼ということを利用して趙雲と義兄弟の契りを結び、親交を深めるため自分の嫂を譲ろうとしたが、逆にそれが元で関係が険悪となり、趙雲から袋叩きにされてしまう。これに怒った趙範はついに趙雲の寝首を掻こうとしたが、裏をかいた趙雲に敗れ再び降伏することになっている。

降伏以後の出番はないが、後の長沙征伐の際に、あくまで韓玄との引き合いではあるが、思慮深い人物という評価を諸葛亮関羽に対して伝える場面がある。

脚注

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  1. 『蜀志』先主伝より。
  2. 『蜀志』趙雲伝が引く『趙雲別伝』より。