菅沼定利
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テンプレート:基礎情報 武士 菅沼 定利(すがぬま さだとし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。上野吉井藩の初代藩主。
三河国設楽郡に地盤を持つ菅沼氏の総領家である田峯菅沼氏に生まれ、菅沼定吉の子とも、定吉の叔父・定直の子とも言われている。『明知物語』には、菅沼藤蔵(後の土岐定政)の母の弟と伝えられるが、これは藤蔵の養父・定仙の事が誤伝されている為、該当しない。元亀2年(1571年)に定吉が武田信玄に与すると、これに反対して田峯から離反し、支族である野田菅沼氏の菅沼定盈を頼って徳川家康に仕えた。天正10年(1582年)に織田信長の甲州征伐で武田氏が滅亡したとき、定吉も織田軍の追討を受けて殺された(一説には、赦免を嘆願した定吉の要求は退けられ、誅殺されたとも)ため、田峯菅沼氏の後継に任命された。
小田原征伐後、家康が関東に移ると上野国吉井に2万石を与えられた。領内で検地を実施し、六斎日六斎市を催すなど、治政の安定化に努めた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは秀忠軍として、真田昌幸の信濃上田城攻めに参加した。
慶長7年(1602年)に死去。田峯菅沼氏の血統は断絶したが、死後の家督は盟友・奥平氏から迎えた養嗣子の忠政が継いだ。
菩提寺として創建した吉井神保の仁叟寺に葬られたが、150年後に三河新城3代領主菅沼定用により、墓石塔を玄太寺に移された。現在、墓石塔は吉井町史跡に指定されている。