壬生藩

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壬生藩(みぶはん)は、下野国都賀郡壬生に存在した。藩庁は壬生城(現在の栃木県下都賀郡壬生町本丸一丁目)。

藩史

戦国時代壬生氏の支配下にあった壬生は、小田原征伐で壬生氏が滅亡した後は結城秀康結城藩の支配下に置かれた。関ヶ原の戦い後、秀康が越前国福井藩に加増移封された後の慶長7年(1602年)、信濃国高島藩から日根野吉明が1万900石で入ることにより、壬生藩が立藩された。吉明は日光東照宮造営の奉行として功績を挙げた後の寛永11年(1634年)7月、豊後国府内藩に移封となる。

翌年6月20日、阿部忠秋が2万5000石で入部する。忠秋はまもなく徳川家光のもとで老中に栄進したため、武蔵国忍藩へ移封され、代わって寛永16年(1639年)1月、忠秋と同じく家光の「六人衆」である三浦正次が2万5000石で入る。三浦氏は検地などを行って藩政の基礎を固めた。第3代藩主・三浦明敬奏者番若年寄を歴任している。元禄5年(1692年)2月23日、明敬は日向国延岡藩に移封となった。

代わって徳川綱吉政権のもとで柳沢吉保と共に権勢を振るった松平輝貞が3万2000石で入った。輝貞は元禄7年(1694年)8月27日、1万石を加増された。藩政においては城下の大改修に尽力している。元禄8年(1695年)5月、輝貞は上野国高崎藩に移封され、代わって若年寄であり近江国水口藩主である加藤明英が2万5000石で入った。明英は文武両道に優れた名君で、特に水口では善政を敷いたが、なぜかこの壬生では年貢増徴を特に厳しくし悪政を敷いた。このため「七色の掛物」と称される税に反対する百姓一揆が発生し、刑死者が出る騒ぎとなった(結果として「七色の掛物」の賦課は撤回された)。明敬は正徳2年(1712年)1月2日に死去。後を加藤嘉矩が継いだが、同年2月26日、加藤氏は水口に戻された。入れ替わりで若年寄鳥居忠英が3万石で入る。

忠英は名君で、殖産興業政策を奨励し近江から干瓢の栽培を伝え、今日の干瓢国内生産8割を誇る栃木県の礎を築き、藩校である学習館を創設するなどして藩政の基礎を固めた。幕末期、壬生藩では尊皇攘夷をめぐっての争いが絶えず、文久2年(1862年)には勤王派が主導権を握って保守派の江戸家老・鳥居志摩が失脚の上、自殺させられた。ところが元治元年(1864年)に水戸藩で天狗党の乱が起こると、今度は保守派が力を盛り返して勤王派を退けるなど、藩内は二分して大混乱した。戊辰戦争では新政府につくか、幕府側に与するかで混乱する中、ようやく新政府側に与して幕府軍と戦った。

明治4年(1871年)の廃藩置県で壬生藩は廃藩となる。その後、壬生県を経て栃木県に編入された。

歴代藩主

日根野家

1万900石 外様

  1. 日根野吉明(よしあきら) 従五位下 織部正

阿部家

2万5000石 譜代

  1. 阿部忠秋(ただあき) 従五位下 豊後守

三浦家

2万5000石 譜代

  1. 三浦正次(まさつぐ) 従五位下 志摩守
  2. 三浦安次(やすつぐ) 従五位下 志摩守
  3. 三浦明敬(あきひろ) 従五位下 壱岐守

松平(大河内)家

3万2000石→4万2000石 譜代

  1. 松平輝貞(てるさだ) 従四位下 右京大夫

加藤家

2万5000石 譜代格

  1. 加藤明英(あきひで) 従五位下 越中守
  2. 加藤嘉矩(よしのり) 従五位下 和泉守

鳥居家

3万石 譜代

  1. 鳥居忠英(ただてる) 従五位下 伊賀守
  2. 鳥居忠瞭(ただあきら) 従五位下 丹波守
  3. 鳥居忠意(ただおき) 従四位下 伊賀守、侍従 若年寄、老中
  4. 鳥居忠熹(ただてる) 従五位下 丹波守
  5. 鳥居忠威(ただあきら) 従五位下 丹波守
  6. 鳥居忠挙(ただひら) 従五位下 丹波守
  7. 鳥居忠宝(ただとみ) 従五位下 丹波守
  8. 鳥居忠文(ただふみ) 従五位下

幕末の領地

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