松浦棟

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松浦 棟(まつら たかし、1646年11月1日正保3年9月24日)- 1713年11月9日正徳3年9月22日))は、江戸時代前期の大名肥前国平戸藩の第5代藩主。

人物

第4代藩主・松浦鎮信(天祥)の長男。母は藤井松平忠国の娘。正室は大河内松平信綱の娘・百。側室は奥田高秀の娘・嘉智。子に松浦長(ながし、長男)、娘(秋月種政正室)。官位は従五位下壱岐守。号は雄香、履担斎。また、歴代藩主の中では初の一字名である。これは、代々一字名を特徴としていた嵯峨源氏の先祖にあやかったものであり、弟の、長男の長も同様である。ちなみに、棟以降は、(本来なら藩主を継いでいたであろう)長と(甥で8代藩主の誠信の長男)が早世したため、松浦清(静山)までは二文字名(○信)の藩主が続いている。

経歴

正保3年(1646年)9月24日、江戸浅草にて生まれる。元禄2年(1689年)、父の隠居により家督を継いだ。志佐・調川の1万石を弟のに分与した。同年、江戸城奥詰、元禄4年(1691年)には寺社奉行を兼務する。さらに長崎の検察官なども務めた。荒廃で苦しむ農民の救済に尽力した。また優れた文化人であり、「履担斎遺文」160巻という自らの日記を残し、現代における貴重な史料となった。 腰痛に長年苦しめられ、妻には先立たれ、将軍・徳川綱吉の寵愛を受けていた長男・が早世してしまうという不幸が相次いだ。このため元禄9年(1696年)、弟の篤信を養嗣子として迎えた。元禄17年(1704年)2月、鎮信(法印)が破却した平戸城を再建に着工し、宝永4年(1707年)にほぼ完成した。正徳3年(1713年)2月11日に腰痛を理由に家督を譲って隠居し、同年9月22日に病に倒れて死去した。享年68。墓所は自らが藩主在任中に建立した平戸の雄香寺。法号は雄香寺殿前壱州太守俊林宗英大居士。

テンプレート:平戸藩主