板垣兼信

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テンプレート:基礎情報 武士 板垣 兼信(いたがき かねのぶ、生没年不詳)は平安時代末期の武将清和源氏義光流、甲斐源氏武田信義の三男。通称は板垣三郎板垣氏の始祖。

来歴

甲斐源氏武田信義の三男に生まれ、甲斐国山梨郡板垣庄を本貫としてその氏とした。板垣氏の始祖である。兄弟に一条忠頼武田有義武田信光らがあり、子に四郎頼時、六郎頼重がいた。

治承・寿永の乱に際しては、一族とともに源頼朝の麾下に参加。兄の忠頼が頼朝によって誅殺された後は、武田氏の次期棟梁と目される存在となる。一ノ谷の戦いでは大将軍源範頼の軍の中に彼の名があり、また備前平家を撃退するなど功績を挙げた。

しかし、同じ軍に所属する土肥実平より格上にあることを主張するなど、源氏一族であることを前面に押し出す言動から徐々に頼朝の警戒するところとなり、1189年文治5年)には太皇太后駿河国大津御厨静岡県島田市野田)の地頭職を解任された。

1190年建久元年)、違勅(勅令違反)の罪を問われて円勝寺遠江国雙侶荘[1](静岡県榛原郡金谷町志戸呂)の地頭職をも解任され、隠岐国配流された。[2]

子孫には、戦国時代武田信玄の傅役となった板垣信方や、両職を務めた板垣信憲らがいる。

補注

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板垣兼信に所縁の地

関連

先代:
-
甲斐板垣氏 初代当主
? - 1190年
次代:
板垣頼重
  1. 東鑑』によると「雙侶荘」。また「質侶荘」とも表記される。
  2. 嫡男の頼時と共に隠岐で歿したと思われる。