LOSCリール・メトロポール
テンプレート:サッカークラブ リール・オランピック・スポルティング・クラブ・リール・メトロポール(Lille Olympique Sporting Club Lille Métropole)は、フランス・リールに本拠地を置くサッカークラブチーム。2012-13シーズンはリーグ・アン(1部)所属。愛称はLes Dogues(猛犬)であり、エンブレムにも犬が描かれている。リーグ・アン(旧ディヴィジョン・アン)で3回、クープ・ドゥ・フランスで6回の優勝を誇る名門である。
1944年に設立されると、1945-46シーズン、1953-54シーズン、2010-11シーズンの3回リーグ・アンで優勝し、6回クープ・ドゥ・フランスで優勝した。クープ・ドゥ・フランスで3連覇を達成したことがあるのはリールとFCレッドスター・サン=トゥアンの2クラブのみである。最も成功を収めた10年間は1945年から1955年までの期間(ディヴィジョン・アン優勝2回、クープ・ドゥ・フランス優勝5回)であり、この期間はジョージ・ベリー監督とAndré Cheuva監督が采配を振るった[1][2]。
実業家であり映画プロデューサーのミシェル・セイドゥが会長を務める。セイドゥは2002年1月にクラブの株式を購入し、2004年に経営権を得た。かつてはヴィルヌーヴ=ダスク近郊にあるスタジアム・ノール・リール・メトロポールをホームスタジアムとしていたが、2012年にグラン・スタッド・リール・メトロポールにホームスタジアムを移転した。南西約30kmの距離にあるパ=ド=カレー県・ランスに本拠地を置くRCランスとはライバル関係にあり、両者の対戦はデュービ・ド・ノール(北部ダービー)と呼ばれる。
目次
[非表示]歴史
黎明期
1944年9月23日、SCフィヴェ(1901年創設)とオリンピック・リロワ(1902年創設)が合併してLOSCリール・メトロポールが誕生した。前身クラブのリロワは1932-33シーズンにリーグ優勝しており、1939年にもSCフィヴとの合併を協議していたが、合意には至らず、地元のIris Club Lilloisと合併してオリンピック・リロワとなっていた。しかし、第二次世界大戦やヴィシー政府のプロサッカー禁止令の影響で、多くの選手はアマチュアリーグでプレーした。当初の名称はスタッド・リロワ(Stade Lillois)であり、1944-45シーズンに先駆けた親善試合2試合をこの名称で戦ったが、1944年11月10日に監督らがミーティングを行ない、クラブ名称をLOSC(Lille Olympique Sporting Club)に変更した。この名称はオリンピック・リロワ(LO)とSCフィヴェ(SC)に敬意を払ってのものである。ホーム用ユニフォームにはリロワが使用していた赤色と白色を採用し、アウェー用にはFivesが使用していた青色を採用した。フィヴの元会長であるルイ・エノがリールの初代会長に就任した。
黄金期
第二次世界大戦後、リールはプロリーグに復帰してディヴィジョン・アンに登録され、エノ会長はイングランド人のジョージ・ベリーを監督に招いた。また、Joseph Jadrejak、Marceau Somerlinck、Jules Bigot、フランソワ・ブルボット、Jean Baratte、Jean Lechantreなど、かつてのフィヴとリロワの選手たちを呼び寄せることにも成功した。彼らのおかげで、1945年のクープ・ドゥ・フランスでは決勝に進出。コロンブのスタッド・オランピック・イヴ=ドゥ=マノワールで行われた決勝では、より経験豊かなラシン・クラブ・ド・フランスに0-3で敗れた。1945年にはディヴィジョン・アンが復活し、リールは1945-46シーズンのディヴィジョン・アンとクープ・ドゥ・フランスのダブル(2冠)を達成して驚きをもたらした。ディヴィジョン・アンでは26試合で28得点を挙げたRené Bihelに導かれ、ASサンテティエンヌに勝ち点1差でトロフィーを獲得した。決勝でFCレッドスター・サン=トゥアンと対戦したクープ・ドゥ・フランスでは、Bihel、Bolek Tempowski、Roger Vandooren(2得点)の得点で勝利した。地元紙によって「War Machine」というニックネームが付けられた。ベリー監督はエノ会長とたびたび衝突し、シーズン終了後に退任してAndré Cheuvaが新監督に就任した。
優勝の立役者となったベリー監督は去ったが、Cheuva監督の下でも調子を維持し、1946-47シーズンのリーグ戦では4位となった。クープ・ドゥ・フランスの決勝ではRCストラスブールと対戦し、2-0で破って2連覇を果たした。1947-48シーズンはリーグ戦こそオリンピック・マルセイユに次ぐ2位だったが、クープ・ドゥ・フランスでは決勝でローカル・ライバルのRCランスと対戦し、Baratteが86分に決勝点を挙げて3連覇を達成した。その後の4シーズンも継続して3位以内に入った。1950-51シーズンのラテン・カップでは決勝に進出したが、ACミラン(イタリア)に敗れた。JadrejakとBigotが去ったが、リールは1952-53シーズン(4回目)と1954-55シーズン(5回目)にもクープ・ドゥ・フランスで優勝した。1955年以降は2011年まで優勝に見放された。
低迷期
Baratte、Lechantre、Sommerlynck、1950年に獲得したCor van der Hartなどもチームを去り、リールは負のスパイラルに足を踏み入れた。フランス国内で有望株を探すのに苦労し、エノ会長は獲得対象を外国出身選手にも広げた。1954年、1954 FIFAワールドカップでハンガリー代表として優れたプレーを見せたディフェンダーのジョゼフ・ザカリアスに興味を持った。しかし、同年の第一次インドシナ戦争終結後、ザハリアスの新天地での名声獲得願望を利用しようと企んだチェコスロバキアの退役軍人が、ザカリアスになり済ました。この偽ザカリアスはフランスを訪れ、「鉄のカーテンを開き、自由の側を選択する」と宣言することでリールとの契約の意思を明らかにした。エノ会長は彼の本人同一確認書類を見落とし、正式に契約を済ませて報道陣に紹介した。しかし、1954年7月2日に行なわれた試合で偽ザカリアスの計略が明るみに出た。その下手糞なプレーを見て、観客と報道陣はすぐにザカリアス本人でないことに気付き、彼はプレー中に逮捕された。偽ザハリアスはなりすましを白状し、懲役2年の判決を受けた。フランスにおけるリールの名声は完全に傷つき、海外にも話が広まると、やがてリールはスポーツ面での名声も失っていった。 クープ・ドゥ・フランス優勝からわずか2年後の1955-56シーズン、リールは16位に終わり、クラブ史上初のディヴィジョン・ドゥ(2部)降格となった。わずか1シーズンでディヴィジョン・アン復帰を果たしたが、その2年後の1959年には再びディヴィジョン・ドゥに降格した。同年夏にはエノ会長が退任し、Cheuva監督が辞任した。
2度目の降格は財政難を招き、当時のフランス最高額の移籍金(1900万フランス・フラン)でジャン・ヴァンサンをスタッド・ランスに売却するなど、多くの主力選手を売らざるを得なかった。1959年から1978年まではエレベータークラブとしてディヴィジョン・アンとディヴィジョン・ドゥを行き来した。1969年にはフランスアマチュア選手権(CFA)まで落ち込んだ。15クラブ中10位だったにもかかわらず、運営上の理由によって、フランスサッカー連盟(FFF)とフランスプロリーグ機構(LFP)にディヴィジョン・ドゥ昇格を許された。1977-78シーズン終了後にディヴィジョン・アン復帰を果たし、その後の19シーズンはディヴィジョン・アンの地位を維持した。この期間の最高位は6位であり、昇格初年度の1978-79シーズンと1990-91シーズンに記録した。
ルコント会長時代
1994年にはベルナール・ルコントが会長に就任し、ルコント会長はLFPの財政基準外転落からクラブを救った。ルコント会長は高額な移籍金で有望株を獲得するのではなく、下部組織での選手の育成を重要視することに回帰し、ベノワとブルーノのシェイルー兄弟や、他の多くの若手有望株を下部組織に連れてきた。1996-97シーズン終了後、リールはディヴィジョン・ドゥ降格となった。1999-2000シーズン終了後、ボスニア・ヘルツェゴビナ人のヴァヒド・ハリホジッチ監督の下でディヴィジョン・アン復帰を果たした。2000-01シーズンは3位となり、2001-02シーズンにはUEFAチャンピオンズリーグの本選グループリーグを戦った。2002年1月、有名映画プロデューサーのミシェル・セイドゥがクラブの株式を購入して小規模株主となった。
セイドゥ会長時代
2002年夏には、かつてASモナコを指揮したクロード・ピュエルが監督に就任した。2004年夏、セイドゥはクラブ株式の過半数を得てクラブの会長に就任した。彼の会長下初年度となった2004-05シーズンには、リヨンに次ぐ2位でシーズンを終え、クラブ史上初めてUEFAチャンピオンズリーグ本選グループリーグからの出場権を獲得。ASモナコやオリンピック・マルセイユを抑え、多くのフランスのサッカーファンを驚かせた。また、同シーズンのUEFAカップではベスト16となった。2005-06シーズンにも安定したプレーぶりで3位となった。2005年11月2日、UEFAチャンピオンズリーグのマンチェスター・ユナイテッドFC戦では強豪相手に白星を挙げた。4大会(国内リーグ、国内カップ、国内リーグカップ、CL)を掛け持ちした2006-07シーズンはリーグ戦で10位に終わったが、UEFAチャンピオンズリーグのグループリーグではACミランに次ぐ2位となり、クラブ史上初めて決勝トーナメントに進出したが、議論の余地のある試合の末にマンチェスター・Uに敗れた。2007-08シーズンにはパトリック・クライファートなどのベテランに加えて才能ある若手が台頭し、リーグ戦で7位となった。
(ミシェル・)セイドゥ会長にはジェローム(・セイドゥ)という兄弟がおり、ジェロームはオリンピック・リヨンの株主である。リールからリヨンに移籍する選手は数多く、2000年代後半だけでもエリック・アビダル(2004年)、マチュー・ボドメ(2007年)、カデル・ケイタ(2007年)、ジャン・マクーン(2008年)、ミチェル・バストス(2009年)などがいる[3]。2007年から2009年にかけては、バストス、マクーン、ケヴィン・ミララスなど、何人かの中心選手を他クラブに売却した。2008年6月にはピュエル監督が退任してリヨン指揮官に転任し、リュディ・ガルシア監督が就任。ミシェル・セイドゥ会長はジェルヴィーニョ、フローラン・バルモン、リオ・アントニオ・マヴュバ、ピエール=アラン・フローなどの名選手を獲得し、「リールは売り手クラブである」という認識の払拭に努めた。ガルシア監督は若手のアディル・ラミをレギュラーに抜擢し、ベルギー人のエデン・アザールを下部組織からトップチームに昇格させた。移籍市場での動きやクラブ方針の転換は直ちに実を結び、2008-09シーズンは5位でUEFAヨーロッパリーグ出場権を獲得。ガルシア監督のリールは攻撃的なスタイルで強い印象を与え、2009-10シーズンはリーグ最多の72得点を挙げて4位に躍進した。2010-11シーズンには、1954年以来57年ぶり3度目のリーグ制覇を果たした。ストライカーのムサ・ソウが25得点を挙げてリーグ得点王に輝き、17得点15アシストのアザールがリーグ最優秀選手に選出された[4]。チームは2シーズン連続でリーグ最多の68得点を挙げると、クープ・ドゥ・フランスでも優勝し、リーグとカップの2冠を達成した[5][6]。
スタジアム
クラブが創設された1944年から1974年はスタッド・アンリ・ジョリをホームスタジアムとしていた。このスタジアムはかつてオリンピック・リロワが使用していたスタジアムであり、SCフィヴェとの合併後はリールの所有物となった。スタジアム名は1910年から1932年までオリンピック・リロワの会長を務めたアンリ・ジョリに由来している。1974年、30年近く使用することになるスタッド・グリモンプレ・ジョリに移転し、1975年10月28日にフェイエノールト(オランダ)を招いて落成記念試合が行なわれた。グリモンプレ・ジョリが老朽化したため、2003年、クラブはスタジアムが建っている場所に新スタジアムを建設すると発表し、2004-05シーズンからは一時的に郊外のヴィルヌーヴ=ダスクにあるスタジアム・ノール・リール・メトロポールに移転した[7]。行政的・政治的手続きの遅延により、建設計画は不透明な状態におかれ、計画は結局2005年に取り消された。リール市がヴィルヌーヴ=ダスクとLezennesに位置するグラン・スタッド・リール・メトロポール建設への資金補助を決定したのは2006年だったが、リール都市圏がグリモンプレ・ジョリの取り壊し費用供出に同意し、正式に取り壊しが開始されたのは2010年3月22日になってからだった[7]。スタッド・ノール・リール=メトロポールはUEFAチャンピオンズリーグの開催基準を満たしていなかったため、同大会のホームゲームはスタッド・フェリックス・ボラール(RCランスのホームスタジアム)やサン=ドニのスタッド・ドゥ・フランスを借りて使用した。2011年に欧州サッカー連盟(UEFA)が新レギュレーションを採用し、スタッド・ノール・リール=メトロポールの使用が可能となった。新スタジアムは2012年に完成し、UEFA EURO 2016の開催予定地となった[7][8]。8月17日、2012-13シーズンのホーム開幕戦のASナンシー戦(1-1)が初試合となり、45,000人を集めた[8]。
- 1944-1974 スタッド・アンリ・ジョリ
- 1974-2004 スタッド・グリモンプレ・ジョリ
- 2004-2012 スタジアム・ノール・リール・メトロポール
- 2012- グラン・スタッド・リール・メトロポール
タイトル
国内タイトル
- リーグ・アン(ディヴィジョン・アン):3回
- 1945-46, 1953-54, 2010-11
- リーグ・ドゥ(ディヴィジョン・ドゥ):4回
- 1963-64, 1973-74, 1977-78, 1999-00
- クープ・ドゥ・フランス:6回
- 1945-46, 1946-47, 1947-48, 1952-53, 1954-55, 2010-11
- クープ・ガンバルデッラ:1回
- 1960
国際タイトル
- 2004
成績
シーズン | ディビジョン | 国内 | 欧州カップ | 備考 | ||
---|---|---|---|---|---|---|
リーグ | カップ | リーグカップ | ||||
2000–01 | ディヴィジョン・アン | 3位 | ベスト64 | ベスト32 | ||
2001–02 | ディヴィジョン・アン | 5位 | ベスト32以下 | ベスト32 | CL GS敗退 | |
UEFAカップ ベスト16 | ||||||
2002–03 | リーグ・アン | 14位 | ベスト16 | ベスト8 | ||
2003–04 | リーグ・アン | 10位 | ベスト32以下 | ベスト16 | ||
2004–05 | リーグ・アン | 2位 | ベスト16 | ベスト16 | インタートトカップ優勝 | |
UEFAカップ ベスト16 | ||||||
2005–06 | リーグ・アン | 3位 | ベスト8 | ベスト16 | CL GS敗退 | |
UEFAカップ ベスト16 | ||||||
2006–07 | リーグ・アン | 10位 | ベスト16 | ベスト16 | CL ベスト16 | |
2007–08 | リーグ・アン | 7位 | ベスト16 | ベスト32 | ||
2008–09 | リーグ・アン | 5位 | ベスト8 | ベスト32 | ||
2009–10 | リーグ・アン | 4位 | 9回戦敗退 | ベスト8 | EL ベスト16 | リーグ最多得点[5] |
2010–11 | リーグ・アン | 1位 | 優勝 | ベスト8 | EL ベスト32 | リーグ最多得点[5] |
2011–12 | リーグ・アン | 3位 | ベスト16 | ベスト8 | CL GS敗退 | |
2012–13 | リーグ・アン | 6位 | ベスト16 | ベスト4 | CL GS敗退 | |
2013–14 | リーグ・アン | 3位 | ベスト8 | ベスト32 |
現所属メンバー
- 2014年7月8日現在
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- 監督
ローン移籍
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- out
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歴代監督
歴代監督には、元ベルギー代表のジョルジュ・ヘイレンス(1984年-1989年)、2002年から2004年にフランス代表を指揮したジャック・サンティニ(1989年-1992年)、2002 FIFAワールドカップでセネガル代表を指揮したブルーノ・メツ(1992年-1993年)、かつてフランス代表のアシスタントコーチを務めたピエール・マンコウスキ(1993年-1994年)、1990年代後半の復調に貢献したヴァヒド・ハリホジッチ(1998年-2002年)、オリンピック・リヨン監督に転身したクロード・ピュエル(2002年-2008年)などがいる。2008年から2013年まで監督を務めたリュディ・ガルシアは、1980年から1988年まで選手としてリールでプレーしていた。
歴代所属選手
GK
- テンプレート:Flagicon ベルナール・ラマ 1981-1982, 1984-1989
- テンプレート:Flagicon トニー・シルヴァ 2004-2008
- テンプレート:Flagicon ミカエル・ランドロー 2009-2012.12
DF
MF
FW
脚注
外部リンク
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