相良頼俊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
相良 頼俊(さがら よりとし、生年不詳 - 延慶4年1月25日(1311年2月14日))は、鎌倉時代中・後期の武将。相良氏の第3代当主。相良長頼の三男。通称は相良六郎。
当初は大村の佐牟田に住み「佐牟田六郎」と称した。寛元4年(1246年)3月5日、父の長頼から人吉庄の南方にある経徳名外を、また建長3年(1251年)3月22日に成恒庄を譲り受ける。そして建長6年(1254年)兄の頼親より家督を譲られて当主となった。
その後正嘉元年(1257年)9月14日に成恒庄の、その二十日後には刁岡(とらおか)名の地頭職を安堵される。また同年、剃髪して「六郎法師沙弥迎蓮」と称す。
文永11年(1274年)の文永の役、そして弘安4年(1281年)の弘安の役では菊池武房と共に蒙古軍と戦って武功を挙げている。弘安10年(1287年)、家督を子の相良長氏に譲って隠居し、延慶4年(1311年)に死去した。法号は迎蓮。没年には1309年や1310年説もある。