島津久保
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島津 久保(しまづ ひさやす)は、安土桃山時代の武将。島津義弘の子。
豊臣秀吉の九州征伐後、日向国諸県郡に所領を与えられたが一時的ではあるが豊臣氏の人質となる。早くから伯父・義久、父・義弘から後継者と目され、小田原征伐や文禄の役に参陣したが、文禄2年9月8日(1593年10月2日)、朝鮮の巨済島で病死した。享年21。殉死者が3名出ている。
また、伯父・義久は久保を弔う為に、冒頭に「南・無・阿・弥・陀・佛」を冠した和歌を詠じている[1](後述)。
島津義久の弔いの和歌
- 「南」 なく蟲の 聲は霜をも 待やらて あやなく枯るる 草の原かな
- 「無」 紫の 雲にかくれし 月影は 西にや晴るる 行衛なるらん
- 「阿」 雨はただ 空にしられぬ 習なれや 憂き折々の 袖にかかりて
- 「弥」 みし夢の 名残はかなき ね覚かな 枕にかねの 聲ばかりして
- 「陀」 尋ねても 入らまし物を 山寺の ときおく法の 深きこころを
- 「佛」 筆をみぎに 弓を左に もてあそぶ 人のこころや 名に残らまし
註
テンプレート:Reflist- ↑ 『島津中興記』青潮社 1979年