大友政親

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大友 政親(おおとも まさちか、1444年文安元年) - 1496年7月20日明応5年6月10日))は室町時代後期の人物。豊後国戦国大名。房丸。五郎。左衛門大夫、豊前守。法名は海蔵寺殿珠山如意。

大友氏の第16代当主。第15代当主・大友親繁の長男。母は第14代当主大友親隆の娘。妻は大内政弘の妹。第17代当主大友義右の父。第18代当主大友親治の兄。

生涯

1473年、父親繁の隠居により家督を継ぎ、当時の将軍(この年に子の義尚に将軍職を譲る)足利義政より偏諱を賜って政親を名乗る。1477年、前将軍・義政から家督の継承を認められ、豊後・筑後両国の守護に任じられる(ただし、1462年の時点で既に政親に両国の守護職は認められた旨の記録もある)。応仁の乱後も大友家内部では混乱が続き、当主の座に居続けることが嫌になったのか、1484年、息子親豊(後の義右)に家督を譲って隠居してしまう。しかし親豊の母は大内氏の娘であったことから大内氏の干渉は止まず、また従兄弟の大聖院宗心(第13代当主大友親綱の子)が政親と親豊の離間を図り盛んに暗躍していたこともあって、家中は政親派と親豊派に分裂していく。

1487年、父子は一時的に和解したものの、1489年に政親の異母弟に当たる日田親胤が謀反を起こすと、宗心は「親胤の行為は政親の差し金」と讒言、これを信じた親豊は再び政親との対立を深める。明応の政変が勃発した際には、政親は足利義高(義澄)を、義右(親豊)は足利義材(義稙)を支持。この後も政親派の田原親宗田原親述の父)が義右を一時追放するなど混乱が続く。

明応5年(1496年)5月13日、政親は筑前へ逐電したが、そのわずか14日後に義右は急逝してしまう。政親による毒殺説を耳にした義右の従弟(政親の義甥)である大内義興は激怒し、同年6月、討伐軍を差し向ける。政親は船で立花山城をめざしたものの赤間関にて杉信濃守に捕らえられ、長門舟木地蔵院にて詰腹を切らされた。享年53。墓地は臼杵市の海蔵寺。当時、北九州における主勢力だった大内氏から妻を迎え、その間に息子が生まれたことが、皮肉にも彼の悲劇に繋がってしまったのである。

政親の死後、家督は実弟の大友親治が継承し、家中の混乱を収めた。のち天文7年(1536年)、家臣であった小倉氏が臼杵市戸室に御霊社を建立し、政親の霊を祀っている。

偏諱を与えられた人物

*名前の2文字目「」の字は元々大友氏一族の通字として用いられている字であるため、これに該当する家系に関しては省略、明らかに政親の代にこの字を賜っていると思われる人物のみを掲載する(※但し、1484年~1496年は政親の子である材親(義右)が当主であったため、この間に材親から賜った可能性もある)。


テンプレート:豊後大友氏当主