伊達斉村
伊達 斉村(だて なりむら)は、陸奥仙台藩第8代藩主。伊達氏第24代当主。第7代藩主・伊達重村の次男。
経歴
安永3年12月5日(1775年1月6日)出生。母は喜多山美哲(藤蔵)の娘、正操院。天明3年(1783年)に嗣子となり(兄は早世していたものと思われる)、祝村(ときむら)と名乗る。
父の正室観心院の養いとなる。守役は古田良智(舎人)、付役は平賀義雅(蔵人)が勤める。
天明7年(1787年)に元服して将軍徳川家斉の偏諱を受けて斉村と改名し、従四位下、侍従、美作守となる。
寛政2年(1790年)、父・重村の隠居を受けて家督相続し、第8代藩主に就任し、陸奥守、左近衛少将となる。寛政5年(1793年)に関白鷹司輔平の娘、興姫(後に誠子と改名、光格天皇の従姉)と結婚。
寛政8年(1796年)には仙台藩主家に不幸が連続する。同年3月2日に正室の誠子を母として長男・周宗が出生したが、産後の肥立ちが悪く、同年4月16日に誠子が死去する。同年4月21日に江戸で父が死去する。斉村も帰国の途中に白河駅で病にかかり、帰国後に仙台城にて同年7月27日(1796年8月29日)に病没した。享年23。
死亡当時、長男の周宗は乳児、次男の斉宗は胎児といった状況に加え、正式に後継者も決めていなかった。故に斉村の死去は江戸幕府はおろか藩内にも機密扱いとした上で、同年8月1日に斉村の病気回復が遅れている旨が幕府に報告され、藩内には同年8月12日(1796年9月13日)に死去したと公表の上で3日後、江戸幕府に斉村の病気による長男・周宗の末期養子としての相続願いが出され、認可された。法謚は永慶院殿桂山蘭榮大居士。
人物
武芸よりも詩文を好む教養人であった。寛政8年(1796年)、岩松壽隆(喜惣治)が深山幽谷の中に埋もれている作並の湯(現在の作並温泉・岩松旅館)を開き、世の多くの人々を助けたいと願い出てきたため、それを許可したとの逸話がある。
系譜・妻子
偏諱を与えた人物
斉村時代
在任期間が1790年から1796年(6年間)と大変短いため、歴代藩主に比べると少ない。
参考文献
- 「三百藩藩主人名辞典1」(新人物往来社)
- 「仙台市史・通史5・近世3」(2004年・仙台市史編さん委員会)