京極高通 (讃岐国多度津藩主)
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京極 高通(きょうごく たかみち、元禄4年6月23日(1691年7月18日) - 寛保3年4月20日(1743年5月13日))は、江戸時代中期の外様大名。讃岐国多度津藩初代藩主。多度津藩京極家初代。
丸亀藩2代藩主・京極高豊の四男。母は側室。正室は越前松平直丘の娘、継室は山崎義方の娘。子は京極高慶(長男)、京極高伴(次男)。官位は従五位下、壱岐守。
経歴
高豊と正室との間に生まれた3人の男児が相次いで夭折し、高通が生まれた翌年の元禄5年(1692年)に生まれた五男で正室の子・高或が丸亀藩の嫡子となった。しかし、家名断絶を恐れた高豊は、高通に支藩を立てさせるべく幕府に届け出た。
元禄7年(1694年)高豊が病没した(享年40)。これにより高或が丸亀を襲封し、高通は多度津(香川県仲多度郡多度津町)周辺に1万石を賜り、多度津藩初代藩主となった。藩庁は丸亀城内に置かれ、麻布鳥居坂に江戸藩邸が置かれた。宝永6年(1709年)叙任。襲封はわずか4歳であったため、正徳元年(1711年)になってようやく実質的に藩主として政務を執った。
享保20年9月24日(1735年11月8日)、長男・高慶に藩主の座を譲り隠居、「道静」と号し和歌や書を嗜んだ。寛保3年(1743年)、江戸藩邸で病没した。享年53。