新勅撰和歌集

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2013年12月5日 (木) 14:00時点におけるTribot (トーク)による版 (bot: WP:BOTREQ#「文学」テンプレートの除去提案 oldid=49946488)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索

新勅撰和歌集』(しんちょくせんわかしゅう)は十三代集の最初、通算で第九勅撰和歌集。別名、宇治川集など。

貞永元年(1232年6月13日後堀河天皇の下命を受けた藤原定家が単独で撰し、上皇の死後も九条道家教実父子の後援で編纂事業が引き継がれ、四条天皇代の文暦2年(1235年3月12日、完成し奏上。仮名序も定家筆。20巻、伝本によって歌数が違うが、1370首強ある。部立は四季(春秋二巻、他一巻)・賀・羇旅・神祇・釈教・恋・雑(恋・雑共に五巻)の順に並び、従来の二十巻の勅撰集において独立した巻を持った哀傷・離別の項目が無く、それぞれ雑歌・羇旅に吸収されている。

最多入集歌人は藤原家隆(43首)で、九条良経(36首)、藤原俊成(35首)、西園寺公経(30首)、慈円(27首)、源実朝・九条道家(共に25首)、飛鳥井雅経(20首)がそれに次ぎ、定家が庇護を受けた九条家・西園寺家の貴顕(公経は定家の義弟にして、関白九条道家の岳父である)の入集が目立つ。ほかに北条泰時ら武家歌人の歌もある。承久の乱以後、流刑地にあった大歌人後鳥羽院順徳院の歌を除外したのは、他ならぬ幕府への配慮であるが、藤原家隆・源実朝を高く評価する傍ら、自身の歌の入集を最小限に抑えた定家の態度は興味深い。

新勅撰集は華やかな新古今調から一転して平明枯淡な趣向に走り、定家晩年の好みを伺わせる。その保守的な歌風は二条派に「実」として尊重され、中世和歌の手本となった。

テンプレート:勅撰集テンプレート:Asbox