大野湊神社

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神事能が奉納される能舞台

大野湊神社(おおのみなとじんじゃ)とは、石川県金沢市に鎮座する猿田彦大神を祭神とする神社である。

歴史

神亀4年(727年)、既存の神明社(祭神・天照大神)の傍らに猿田彦大神を勧請したのが始まりとされる。この神明社の創設は不詳であるが、この合祀より大野郷(旧宮腰・現金石町)の湊の守護神として、大野湊神社と称されるようになった。延長5年(927年)成立の延喜式神名帳に記載を持つ加賀郡式内社で、2133ある国幣小社のひとつである。社号は佐那武大宮大明神または佐良嶽明神。この佐那武は、祭神の猿田彦を指すという。また、佐那は奥州の住人佐那と言う者が海中より御神体を引き上げ真砂山に奉鎮したことに由来するといわれる。佐那はさなぎで製鉄との関連を示し、奥州の金売によって製鉄技術が伝えられたことに関係するという。さらに、佐那は地名に由来するという説もある。

鎌倉期成立といわれる平家物語に、越中前司平盛俊宮腰(みやのこし)の佐良嶽(さらだけ)に陣を敷いたとの記述がある。この佐良嶽は現在の金沢市金石町あたり、犀川河口南岸の砂丘地とを指すと推測される。大野湊神社はこの佐良嶽の麓、大野湊に元々鎮座していたが、度重なる嵐や大波で砂丘地が削られ、神社は海中へ没したといわれる。佐良嶽の名も近世には既に失われてしまった。この地名の佐良には、南北朝から室町時代にかけて成立した義経記に関連する伝承がある。加賀の国の下白山の女体后の龍宮の宮が、近江の志賀の都で唐崎明神に見そめられ妊娠して加賀に帰る途中、近江と越前の国境にある愛発山(あらちやま)で佐羅皇子を産んだという。この皇子の名が地名に通じるという。この考え方の中心は、大野湊神社に合祀される佐那武社は白山本宮の末社であり、その姫神と唐崎明神の子の佐羅皇子は佐那武=猿田彦として佐良嶽に祀られている、という見方にある。この推論を支えるのは、サラという音韻が通じているということの他、それぞれの神社の祭神の共通性だとされる。この説によれば、宮腰という地名は、白山の宮の腰の意となる。しかし、佐良嶽の麓の神社の下(宮の腰)の意という説明も同様に可能である。

神社は建長4年(1252年)火災により古大野から東八丁をへだてた寺中町の離宮八幡宮(現在地)に奉遷された。戦国時代には荒廃したが、前田利家により再興。慶長9年(1604年)からは、恒例となる神事能の奉納が前田利長によって始められた。社殿は寛永16年(1639年前田利常によって造営された。明治18年(1885年県社に指定。昭和41年(1966年別表神社に指定。昭和57年(1982年)石川県指定文化財。毎年8月1日より3日間執り行われる大祭は、525年間大野郷に鎮座されてい た当時を偲び、海岸の仮殿に神輿を奉遷して行なわれるもので、金石の夏祭りとして有名である。

例祭

毎年8月1日から3日間にわたって行われる大祭は、創建当時の場所に仮殿を建てて行われる。

外部リンク

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