一柳直末
一柳 直末(ひとつやなぎ なおすえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。豊臣氏の家臣。
生涯
天文15年(1546年)、美濃国厚見郡西野村(現在の岐阜県岐阜市西野町)の土豪・一柳直高の子として誕生[1]。
元亀元年(1570年)より織田氏の家臣・羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に仕えた[1]。天正8年(1580年)、父の死により遺領を相続[1]。各地を転戦して武功を挙げ、秀吉の黄母衣衆となった[1]。
天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いの際に、秀吉が織田信雄配下不破広綱の竹ヶ鼻城を水攻めによって落城させると(竹ヶ鼻城の水攻め)、直末が城主として入った。天正13年(1585年)には田中吉政・中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊らとともに秀吉の甥・豊臣秀次の宿老に任命され、美濃国大垣城に3万石を領した。さらに天正17年(1589年)には軽海西城に転封となり、6万石に加増された(『寛政重修諸家譜』によれば、天正13年(1585年)に美濃国で6万石を領し、浮見城に住したとある[1])。また、天正13年(1585年)には従五位下伊豆守に叙せられた[1]。
天正18年(1590年)、小田原征伐に参加。3月29日、伊豆国山中城攻めで間宮康俊の軍の銃弾に当たり戦死した[1][2]。享年45。山中城三の丸跡の宗閑寺に墓が現存している[2]。『寛政重修諸家譜』によれば駿河国長久保村に葬られたという[1]。
この年の正月に生まれたばかりの男子は、義兄弟の黒田孝高(官兵衛・如水)に引き取られ、その子・長政の幼名と同じである松寿丸(しょうじゅまる)と名付けられた。
人物・逸話
- 武勇に秀でていたことから「熊」の異名をとった。
- 秀吉にとても信頼されていた武将である。小田原の陣中にあった秀吉は直末討死の報告を聞いて「直末を失った悲しみで、関東を得る喜びも失われてしまった」と嘆き、3日間ほど口をきかなかったという(『一豊公記』)。家督は弟の一柳直盛が継ぎ、尾張国葉栗郡西部に黒田城を中心として3万5,000石を与えられた。また、母らくにも直末の死を悼んだ豊臣秀次から800石の知行地が与えられた。この際の所領宛がい状は、女性相手というためか漢字がほとんど使われておらず、主にひらがなで構成されている(『一柳文書』)。
- 岐阜県関市にある一柳城は直末が築城・改修し、一柳の名をつけた城である。
家族・親族
『寛政重修諸家譜』に、妻子についての記載はない。弟妹として、女(小川祐忠室)、直盛、直道(五郎兵衛)が掲げられている。末弟の直道は、天正18年(1590年)7月9日、小田原攻めの陣中で没した[1]。
一柳家は次弟の一柳直盛が継ぐ。直盛は関ヶ原の合戦を越えて近世大名としての地盤を築き、最終的に伊予西条藩6万8000石の主となった。直盛の遺領は3人の子で分割さたが、そのうち2家が明治維新まで大名として生き延びた。
脚注
参考文献
- 『一豊公記』
- 『一柳文書』
- 『寛政重修諸家譜』巻第六百三