柴田勝政
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柴田 勝政(しばた かつまさ、弘治3年(1557年)- 天正11年(1583年)4月21日[1]?)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。佐久間盛次の三男[2](または次男)。母は柴田勝家の姉[3](または妹[4])。兄に佐久間盛政、佐久間安政、弟に佐久間勝之がいる。佐久間勝政ともいう。通称は三左衛門。妻は日根野高吉の妹。息子に、柴田勝重、柴田勝次[5]。越前国勝山城主であり当時は勝安と名乗っていた。
尾張国出身。兄と共に織田信長に仕え、母方の叔父である柴田勝家の北陸平定軍に属した。武勇に優れ、加賀一向一揆平定で戦功を挙げたため、勝家に気に入られてその養子となり、柴田姓を名乗ることを許された。同じく勝家の養子であった柴田勝豊とは仲が悪く、常に対立していた。勝家も勝政を次第に重用して勝豊を軽視するようになり、それが天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでの勝豊の裏切りにつながったといわれている。
その最期には諸説あり、一説には賤ヶ岳の戦いで撤退中、羽柴軍の追撃を受け、羽柴秀吉の小姓・脇坂安治に討たれ敗死したとされており、『寛政重修諸家譜』や『藩翰譜』にも「討死す」とあるが、遺骸が収容された記録がないことから、生存説が取りざたされ、賤ヶ岳の戦いの後に秀吉から罪を許されて金森長近の家臣となったとも、四国に落ち延びたとも伝わる。
菩提寺は福井県勝山市の義宣寺。戒名は蘭香宋栄大居士。地元勝山では夫役免除や用水路建設などの善政を敷き、それを感謝をした領民が供養していた法要を営んだといわれ、その位牌も現存する。