加藤貞泰
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加藤 貞泰(かとう さだやす)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。美濃黒野藩主、伯耆米子藩主、伊予大洲藩初代藩主。加藤光泰の次男[1]。
生涯
天正8年(1580年)、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の家臣・加藤光泰の次男として誕生する。
文禄2年(1593年)8月、父・光泰が朝鮮出兵において陣没したため、わずか14歳で家督を継いで秀吉に仕え、甲斐国を領した。文禄3年(1594年)、叙任し、豊臣姓を下賜された。 文禄4年(1595年)に美濃黒野4万石へ移封となった[2]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては、当初石田三成に従い、その要請を受けて尾張犬山城を守備したが、東軍に寝返って井伊直政の指揮下につく[2]。美濃大垣城にて西軍と対峙した後[2]、本戦では島津義弘率いる島津軍と戦い、本戦後は稲葉貞通と共に西軍の長束正家が守る水口岡山城攻略で功を挙げたため、徳川家康より所領を安堵され藩主となった[2]。
貞泰は黒野城と城下町の建設に努め、慶長15年(1610年)1月には黒野に楽市の免許状を出した。7月15日に2万石を加増されて伯耆米子藩6万石の藩主となる[2]。慶長19年(1614年)からの大坂の陣では徳川方として参戦して戦功を立てた[1]。元和3年(1617年)に伊予大洲藩に同じ6万石で移封となる[2][1][3]。
元和9年(1623年)5月22日に死去した。享年44。跡を長男の泰興が継いだ。