玄広恵探

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玄広 恵探(げんこう えたん、1517年永正14年) - 1536年6月28日天文5年6月10日))は、戦国時代武将今川氏親の子。母は今川氏の有力家臣の福島正成(一説に上総介)の娘。今川良真を名乗ったとする説もある。今川義元の庶兄。

異母弟の栴岳承芳(後の義元)や象耳泉奘と同じく、早くに出家して花倉の遍照光寺(静岡県藤枝市)の住持となる。

天文5年(1536年)、今川家当主の氏輝とその次弟・彦五郎が相次いで急死したため、氏親の正室であった寿桂尼の子の栴岳承芳が還俗して今川義元を名乗り、家督を継ごうとした。これに反対して、玄広恵探は福島氏に擁されて挙兵し花倉城に拠るが、梅岳承芳派に攻められて自害した(花倉の乱)。

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