アールスト
アールスト(Aalst)は、ベルギーのオースト=フランデレン州の東部に位置する都市で、同名の行政区画の中心地である。1977年の初めに、アールスト、バールドヘム(Baardegem)、ヘイズヘム(Gijzegem)、ヘルドルセム(Herdersem)、ホフスタード(Hofstade)、メルドルト(Meldert)、モールセル (Moorsel)、ニーウェルケルクン(Nieuwerkerken)の8市及びエーレムボードヘム(Erembodegem)の一部の合併により成立した。人口77,007人(2005年)。面積78.11km²。
ほとんどデンデル(Dender)河域に位置して、幾分(起伏のある)砂質のローム・フランデレン地帯の北部周縁にあるアールスト市は、人口でオースト=フランデレン州第2の都市である。アールスト市の中心地域、ホフスタード及びエーレムボードヘムは中位の都市圏を構成し、合併市の他の市街地は個々の中心部を成す。
概要
産業(1981年に就業人口の42.8%)には、従来は重要で1960年代以降没落してゆく繊維産業の他に、金属工業やプラスチック工業、家具製造業、建築材料産業、食品工業、製靴業なども含まれている。市は発電所の所在地で、合計300ha余りになる六ヶ所の工業団地がある。農業は取り分けホフスタード、メルドルト及びモールセルに集中し、主としてホップ栽培や切り花栽培に当たり、花の競り売りやホップ市場がある。総労働人口の89%を占める就業人口31,285人(1991年)は1.7%は第一次産業、28%は第二次産業、64.8%は第三次産業に従事していて、5%は職業未詳であった。首都ブリュッセル行き通勤は重要である。アールスト市はデンデル川地帯のサービス業の中心地で、教育機関、病院、商法廷、劇場、美術館などがある。鐘楼には神父ダーンス記念館(Daensmuseum)及びフランデレンにおける社会闘争文書館(Archief van de Vlaamse sociale strijd、1982年開館)がある。灰の水曜日の前の日曜日は都心を大きなカーニバルの仮装行列が出て、翌日の月・火曜日に大衆が仮装し、鐘楼から市の象徴である玉葱が投下される。
風物
デンデル河畔にある旧市街はいくつかの面白い建物が残っている。1481年に礎石を据えられたブラバント=ゴシック建築様式の聖マルティヌス教会(St.Maartenskerk)は未完成のままになっている。父のヒエロニマス・ドゥケノワ (Hieronimus Duquesnoy, Sr)に彫刻された後期ルネサンス大理石の(聖体を保存する)聖櫃(せいひつ)やルーベンス、クラーヤー(Gaspar de Crayer)、フェーン(Otto van Veen)の壁画などでインテリアが貴重である。もともと13世紀の、スヘルデ=ゴシック建築様式のスヘーペンホイス(旧州裁判所、Schepenhuis)は15世紀に建て直されたものである。それにすぐ接続している鐘楼(15世紀)には低地地方で最も古い機械仕掛けのカリヨン(52口の鐘)が据え付けてある。優雅な後期ルルネサンスのボルス=ヴァン=アムステルダム(文字通りに「アムステルダムの証券取引所」Borse van Amsterdam、17世紀)はもとのバルバラ室(Barbarakamer)というレトリシャン会館である。すてきなロココ様式の正面をしているアールスト州のもとの行政官庁であるラントホイス(Landhuis, 1643年 - 1646年)は今の古典風の市庁舎(1825年 - 1830年)と全体を構成する。もとのベギン会修道院は1787年に始まった古典風の教会しか残っていない。
歴史
アールストの城が870年の文献に最初に現われている。城市は中世にアールスト伯爵領、その後アールスト州の、貨幣鋳造権を有する首都であった。1576年にスペイン軍によって略奪され、1582年にアランソン公フランソワによって征服され、結局1583年にイングランド軍によって占領され、3万ダカットの代金と引き換えにネーデルラント総督であるパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼに渡された。1667年に要塞はテュレンヌ子爵によって攻略され、取りこわされた。1676年、そして1701年に軍事行動で大打撃を受け、1914年及び1940年に同じく苦しい目にあった。19世紀末から20世紀初頭はアールスト市とその付近には、貧乏になった繊維産業の労働者のために闘ったダーンス兄弟のキリスト教国民党が活躍していた。