新疆生産建設兵団

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テンプレート:中華圏の事物 新疆生産建設兵団(しんきょうせいさんけんせつへいだん)は、中華人民共和国西部新疆ウイグル自治区開墾と辺境防衛を行う準軍事的政府組織。与えられている役割はタクラマカン砂漠など辺境地域の開発、経済開発、社会の安定と調和の保証、東トルキスタン独立運動への弾圧。中規模の都市に駐屯し、駐屯地の行政・司法を行う当局、いわゆる屯田兵である。兵団第一政治委員は中央政治局局員、新疆ウイグル自治区党委書記である張春賢が兼任する。兵団政治委員、司令員は自治区党政副職を兼任し、国務院が任命する(正省級、中央委員)。

中央政府と新疆ウイグル自治区の両者の指揮下にあるものの、兵団の管理下にある地域の行政、司法を自身で行っている。つまり、副省級だが省級の権限を与えられている。総部はウルムチ市。所属する団員の内約88%が漢族で、兵団全体の総人口は258万人あまり。GDPは380.16億元で2005年より12.6%増、1人辺り14,766元となっている。(国家統計局『新疆生産建設兵団2006年国民経済と社会発展統計公報』から)

歴史

1952年、中国の安定に伴い新疆に駐屯していた中国人民解放軍第2軍、第6軍、第15軍の大部分約10万人が開墾と辺境防衛任務を与えられたのに始まる。その中には非共産党員(国民党軍、イリ国軍)らも含まれており、1954年には中央から正式に新疆軍区生産建設兵団の名称を与えられ、開墾地は国営農場となった。中心地は石河子市に所在する。1956年12月には全員が復員手続きを取って軍籍を離れた。

1960年代にソ連との関係が悪化すると多数の構成者がソ連に逃亡してしまい、全国各地から補充を行い、1966年までに148万人を有するようになった。ただ、文化大革命で攻撃を受け1975年までには兵団経済は崩壊の危機に瀕し、最終的には全ての機構が地方政府の農墾局の管理するところとなった。

1981年10月、イラン革命やソビエト連邦のアフガニスタン侵攻東トルキスタン独立運動イスラム原理主義などを背景に初代政治委員の王震は新疆生産建設兵団の再建を鄧小平に提案し、新疆ウイグル自治区情勢の安定を図るためこれが承認される。

2005年7月、兵団内で暴動が発生していると報じられた。1950年代に強制的に新疆ウイグル自治区に内地から徴発された漢族が、原籍に戻りたいと求めたものの拒否されたためといわれている。

所属各師団

新疆生産建設兵団の人員は元々その大部分が中国人民解放軍第1野戦軍の第1兵団と第22兵団から転籍したものだった。現在、兵団は傘下に14個師団(うち建築工程1個師団含む)及び農牧団場185カ所(うち建築工程団11団)を1950年以前は荒れ地だった新疆ウイグル自治区の全体に配備されている。

師団組織

全部で14個師団が存在する。

師市合一

テンプレート:Seealso 新疆生産建設兵団の駐屯が長期化するに当たり、地方政府に対し納税義務の有無を明確にする必要があった。兵団は農八師師団本部が実質的に石河子市政府そのものとなった例を適用し、農一師、農三師、農六師、農十師がそれぞれアラル市トムシュク市五家渠市北屯市の各県級市を創設しそれぞれの市政府を兼ねる形とした。つまり市政府委員会書記は同時に師団政治委員を兼ね、市長は同時に師団長を兼ねる。この制度を「師市合一」と呼ぶ。

人口

2012年の兵団総人口は245.36万人[1]

兵団民族構成(2002年統計に基づく)
民族 人口
漢族 2 204 500 88.1%
ウイグル族 165 000 6.6%
回族 64 700 2.6%
カザフ族 42 700 1.7%
蒙古族 6 200 0.3%
その他 18 100 0.7%

統計:[2]

関連項目

脚注

  1. [1]

外部リンク