韓当

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韓 当(かん とう、? - 226年)は、中国後漢末期から三国時代の武将。に仕えた。幽州遼西郡令支県の人。は義公。子は韓綜。『三国志』呉志に伝がある。


正史における韓当

姓名 韓当
時代 後漢時代 - 三国時代
生没年 生年不詳 - 226年黄武5年)
字・別号 義公(字)
本貫・出身地等 幽州遼西郡令支県
職官 別部司馬〔孫堅〕→行先登校尉〔孫策〕</br>

→領楽安〔孫策〕→中郎将〔孫権〕</br> →偏将軍兼領永昌太守〔孫権〕</br> →威烈将軍〔孫呉〕</br> →昭武将軍兼領冠軍太守(後に兼都督)〔孫呉〕

爵位・号等 都亭侯〔孫呉〕→石城侯〔孫呉〕
陣営・所属等 孫堅孫策孫権
家族・一族 子:韓綜

弓術馬術に優れ体力もあったため、孫堅に見出され部下に採り立てられた。『呉書』によると、当時は下働きの身分に過ぎなかったという。その後、危険を冒しつつ敵を破ったり、賊を捕虜にするなど活躍したため、別部司馬となった。また孫策にも仕え、江東に出陣し三郡(会稽丹陽)の討伐に参加して先登校尉となった。兵士2千・騎馬50頭を与えられた。さらに孫策の劉勲討伐にも参加し、援軍の黄祖軍を破って、鄱陽郡の制圧にも同行、楽安県長となった。その後、山越は韓当の武勇に恐れをなし、従順な態度を取るようになったといわれる。『呉録』には、孫策が黄祖を討伐した時の上奏文が収録されており、行先登校尉であった韓当の名もその中に記されている[1]。孫策亡き後は孫権に仕えた。

208年赤壁の戦いでは中郎将となり、周瑜程普達と共に曹操軍を迎撃した。この戦いで、黄蓋が流れ矢にあたり水中に転落し、兵卒と間違えられ便所の側に放置されていたが、黄蓋が声を振り絞って韓当を呼んだため、韓当は黄蓋を保護し、涙を流して衣服を取り換えてやったという[2]。その後、呂蒙達と共に南郡攻略に参加し、これを奪取した。その功績で偏将軍まで昇り、永昌太守にも任命された。209年陳蘭の援軍に赴いたが、曹操軍の臧覇に敗れた[3]

222年夷陵の戦いでは陸遜朱然と共に劉備率いる蜀漢軍を迎え撃ち、涿郷で撃ち破った。劉備を永安(白帝城)に追いやった後、曹真が南郡(江陵)に攻め寄せて来た時は(三方面での戦い)、城の東南部を守備した。223年、石城侯に封じられ、昭武将軍へ昇進した。また冠軍太守に任命され、都督の称号も与えられた。

地方で軍の指揮を執る時は、将兵を励まし一致団結して守りを固め、また中央からの目付の意見にはよく従い、法令を遵守したので、孫権に信頼された。

後に敢死・解煩兵(呉軍の特殊部隊)一万人を率いて、丹陽郡の賊を討伐し破った。それから間もなくして病気のため死去した。子が爵位を継承したが、石陽の戦いに従軍した時、法に触れる振る舞いを犯した。このため孫権との関係が悪化し、魏に亡命した。

物語中の韓当

小説『三国志演義』では、反董卓連合に参加した孫堅配下の4将軍の一人として、程普・黄蓋・祖茂と共に登場し、大刀を武器として奮う武人とし紹介される。孫堅が袁紹と仲違いした時は、程普・黄蓋と共に袁紹軍の顔良文醜と睨み合いをしている。孫堅が劉表を攻撃し戦死する直前の場面では、凶兆が出ていることを孫堅に伝えている。その後も孫策・孫権の配下として活躍し、赤壁の戦いの緒戦では、旧袁紹軍の降将で構成された曹操軍の先鋒隊を、周泰と共に迎撃し焦触を討ち取っている。また苦肉の策を成功させた黄蓋が、敵の矢を受け河に落ちていたところを助けている。夷陵の戦いにおいては、孫氏三代に仕えた将軍として、周泰達と共に陸遜の指揮に不満を漏らすが、陸遜に戒められている(史実では、不満を漏らした人物の名は不詳である)。

脚注

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参考文献

卷18 魏書18 臧覇伝、卷46 呉書1 孫破虜討逆伝、卷55 呉書10 黄蓋伝、韓当伝

  • 『三国志』孫破虜討逆
  • 『三国志』黄蓋伝引『呉書』
  • 『三国志』臧覇伝