方便
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テンプレート:Sidebar 方便(ほうべん)には、次の意味がある。
- 仏教で、悟りへ近づく方法、あるいは悟りに近づかせる方法のこと。
- 仏教以外の物事について導く・説明するための手法のこと。真実でないが有益な説明等を意味する場合もある。「嘘も方便」という慣用句ではこちらの意味で使用されている。
- 上記の意味がさらに転じて、都合のよいさまを悪く言う場合にも用いられる(「御方便なものだ」)。あるいは、「詭弁」とほぼ同じ意味で用いられることもある。
上記1が原義であるが、現在では上記いずれも辞書に掲載される一般的な用法である。以下では、1の意味について記載する。
概要
方便(ほうべん、サンスクリット:upāya ウパーヤ)は仏教用語であり、悟りへ近づく方法、あるいは悟りに近づかせる方法のことである。方便の意味は仏教の歴史とともに分化・深化した。
語源
「方便」はサンスクリットの upāya ウパーヤの漢語訳であり、upāya は、upa~を語幹に持つ動詞(=「近づく」「到達する」)から派生した名詞である。すなわち、ウパーヤは「接近」「到達」「手段」「方策」などが元々の意味である。仏教用語としてのウパーヤの「近づくべき目標」は、最初の意味としては、仏あるいは悟りである。
原始仏典に見られる逸話
- 『クッダカニカーヤ』(Khuddhaka Nikaya)の「長老尼の譬喩」(Theri Apadana)の第22章「キサーゴータミーの譬喩」(Kisagotami apadanau)には、釈迦が、我が子を亡くしたキサーゴータミーという女性に対して、「死者を出したことの無い家からカラシの種をもらってきたら、その子が生き返る薬を作ってあげよう」と言う場面がある。キサーゴータミーは家々を回り、どの家にも生老病死というものがあることを知って、釈迦の弟子となった。
- 『マッジマニカーヤ』(Majjhima Nikaya)の第86経「アングリマーラ経」(Angulimala Sutta)には、難産で苦しむ妊婦を勇気づけるために、釈迦が、出家以前は殺人鬼であった弟子アングリマーラに対して、「女人よ、私は、聖なる生を得てからこのかた、故意に生きるものの生命を奪ったという覚えがない。その真実によって、あなたに安らぎが、胎児に安らぎがあるように」と言うように命じる場面がある。妊婦はその言葉を聞いて苦痛を和らげることができた。
上記の逸話から、釈迦が場合に応じて嘘も方便として用いていたことは明らかである。
方便の意味の展開
- 最初期の仏教においては、ウパーヤは衆生が仏や悟りに近づく方策のことを主に指していた。
- 初期~中期大乗の経典においては、ウパーヤは仏の智慧による衆生を済度に近づけるための巧みな方法を主に意味するようになり、菩薩の重要な徳目である。
- 『般若経』においては、仏の悟りに到達するために菩薩は方便として、執着しないということ(般若波羅蜜)を実践するのだ、とされる。
- 『大智度論』においては、菩薩道に般若波羅蜜と方便の二つがあるが、ふたつはひとつなのだ、と説かれる。
- 『法華経』においては、方便は仏が衆生に真実を明かすまでの一時的な手段、となってあらわれる。方便は章の題名ともなっており(「方便品」)、それまでに仏が説いた三乗の教えは、「方便」すなわち「仮の教え」である、と説かれ、実は三乗の人すべてが仏となる一仏乗だけがあるのだ、と説かれる(会三帰一)。また、如来寿量品では、釈迦が涅槃に入ったのも方便であって、実は仏は久遠の過去から常住しているのだ、ということが明かされる(日蓮なども参照)
- 『大般涅槃経』においては、『法華経』の流れを汲みつつ、三乗教は方便であるとして一乗を説いている。しかし『涅槃経』では仏性を根本に据えて法華経よりも詳細に理論的に会三帰一の根拠を明かし、『法華経』の久遠実成を推し進めて、涅槃・入滅も方便として、さらに久遠常住を説く。また諸行無常など仏法の基本的教理も発展的に捉え、それまでの「無常・無我・苦・不浄」を方便として涅槃の境地こそ「常楽我浄」だと説いている。
- 密教においては、方便の意義には大きな転換がある。7~8世紀頃成立の後期大乗である密教経典『大日経』においては、方便を究極的に仏の一切智智そのものとしている。すなわち、そもそも仏が一切智智を獲得する根は大悲であり、因は菩提心であると説かれ、如来が大悲によって衆生を救済しつづける「方便」に価値が置かれるようになり、方便は手段であるだけでなく同時に目的でもあり、二つは完全に一致したものなのである。
その他
中国語では「fang bian」と発音し、便利、都合が良い、便所に行く、という意味を持つ。