FUJIC
FUJICは1956年に完成した、日本で最初に稼働した電子式コンピュータである。
開発者
岡崎文次(おかざき ぶんじ、1914年-1998年、男性)は愛知県名古屋市生まれ。第八高等学校(今の名古屋大学教養学部)を経て、東京帝国大学(今の東京大学)理学部物理学科1939年卒業。富士写真フイルム(今の富士フイルム、以下同社)に入社。
1959年に日本電気に転職しソフトウェア開発を行い、1972年に退職。専修大学経営学部教授を1985年まで務める。
趣味は日本式ローマ字運動で「日本の子供は漢字を覚える事に労力をかけて、創造力が育たない」事が、理由の一つだという。
開発の経緯
黎明期のコンピュータ開発は、ナショナルプロジェクトやそれに準ずるクラスの大企業のプロジェクトとして進められたENIACに代表される日本ではTACのようなコンピュータと、EDSACのように少数の研究者を中心としたチームにより作られたコンピュータに分けられる。FUJICは後者であった。
電機メーカーではなく計算需要者のほうであった一民間企業の個人が、通常の業務時間の合間をぬって資料や材料を地道に集め、技術面も複雑なものでなく実用的で安価なものを採用した、というプロジェクトであった。
製造を決意するまで
岡崎がコンピュータの世界に初めて触れたのは1948年で、「科学朝日」にIBMのコンピュータ、SSECの記事を読み、前から考えていた事が現実になったのを悟る。
1949年には同社のレンズ設計課で、カメラレンズの設計課長を務めていたが、レンズの設計には複雑な計算が必要で、当時の機械式計算機では精度が低く、数十人の社員が数表で計算していた。岡崎はその作業の効率化のためにコンピュータが有効だと考えたが、当時コンピュータは海外の大学ぐらいにしかなかった。国産コンピュータを作ろうとしていた者は多数いたので、岡崎も自作を考える。
岡崎の卒業した八高は、高度な数学を教えると評判で、「二進法は便利」「数はゼロから数えた方が便利」など、型にはまらない独創的な授業を行っており。この事からコンピュータと二進法にも抵抗がなかったという。さらに大学にいた際、理研の仁科研究室で粒子を数えるカウンターにデジタル回路が使われており、無音で高速な点が気に入りカウントでなく計算にも使えるのではと調べてみた事もあった。
そして「レンズ設計の自動的方法について」という提案書を会社に提出。これが認められ、1949年3月に20万円の研究予算を手にした。
製造前の準備
準備も製造も本来の業務時間には行わず、本来の仕事の合間や休暇日を使った。部品は神田須田町の露店で購入。経費もまとめて高額で請求すると会社が驚くため、できるだけ安く小刻みに申請していた。半年に数十万円ほどだったという。手伝ってもらったのは女性計算手一人だけで、一人開発のため意見調整で時間を取られることもなかった。社内では良くも悪くもさっぱり注目されず、かえって余計なプレッシャーがかからなかった。
まだ数少なかった海外の雑誌記事や論文も収集したが、当時は文献が少なかったためかえって調査に余計な時間が出なかった。大阪大学の城憲三研究室から文献の一覧表を送ってもらったり、進駐軍が作ったCIE図書館で文献を撮影して読んだりしたという。モデルにしたマシンは無いとの事。
製造
1952年12月より製造にかかる。半年分で200万の予算を獲得。同社の修理部門数名がこれを手伝った。
岡崎は「コンピュータは電気を使ったそろばん」と考えており、まず計算を行うフリップフロップから作りにかかったが、安定したフリップフロップのため真空管の特性曲線をブラウン管に出す装置から作らねばならなかった。この難易度について『計算機屋かく戦えり』のインタビューでは「苦労しなかった」、1974年に書いた論文『わが国初めての電子計算機FUJIC』では「時間がかかった」と語っている。
フリップフロップができると、次は二進数で四桁の計算を行う計算機を作りにかかる。
完成後の実績
1956年3月に完成。岡崎によると「思ったより早くできた」。
FUJICの登場により、計算速度は人手でやっていたときに比べ1000~2000倍ほど上昇したという。労働組合は計算手のリストラを憂いていたが、そういった事態は発生しなかった。社外からも使わせてほしいという要望が幾つかあったので、会社に来て自由に使ってもらったが、それでも社内の反響は特になかった。
しかし完成から2年半後、会社がレンズの設計を子会社に移管。これにより同社でのFUJICの任務は終了し、その後は早稲田大学に寄贈された。現在は国立科学博物館が所蔵・公開している。
システム構成
- 真空管
- 2極管約500本、3極管など約1200本。ENIACの17468本の1割しか使っていない。これは当時の真空管が非常にフィラメントが切れやすく、大量に使うほど保守の手間がかかるため極力使用を減らしたもので、ここが一番の工夫だと岡崎は語る。それでも毎日2-3本は交換していたという。真空管に対してはこの他に、作動電圧を極力下げる、接点をハンダ付けするという方法で安定をはかっていた。日本ではその後すぐ国産の素子であるパラメトロンや、トランジスタを使ったコンピュータが登場したため、FUJICは真空管式による数少ない国産コンピュータとなった。FUJIC以外に完成を見た真空管式コンピュータとしては、東京大学と東芝の共同開発で1959年完成したTACしかない。
- メインメモリ
- 前述通り真空管の信用性が低いため、水銀遅延管を使用した。水銀タンクは直径10cm、長さ1m45cm。容量255word(1word=33bit)。
- プログラム方式
- ストアドプログラム方式(プログラム内蔵方式)で動作しており、プログラムは3アドレス方式の機械語。世界初のストアドプログラム式コンピュータはEDSACだが、命令形態はまったく異なり、この部分でEDSACは参考にしていない事がわかる。用意されている命令は加減乗除・移動・ジャンプ・入力・出力・停止など17種類で、変わったものでは「桁あふれしたらジャンプ」という命令がある。レンズ計算が目的だったため、かけ算の命令はコンパクトにまとめられる工夫がされていた。
- 入力装置
- カードリーダに16進数でコーディングする。カード入力のコマンドは「そのまま格納」「二進数にして格納」「指定した番地から実行」の三種類だけだった。岡崎はこのカードリーダーのため生まれて初めて図面をひいたとの事で、穴の読み取り位置から本体までは曲げたガラス管で光を運ぶ、すなわち光ファイバーと同じ原理による。FUJICの基本操作はカードの読み込みとボタン押しだけなので操作自体は誰でも使えるレベルだった。
- 出力装置
- 電動タイプライターはテレタイプ用でなく、海外製の手打ち用一般タイプライターのキー一つ一つを針金で引っ張るという方式を使っている。またブラウン管も出力装置の一つとして使われている。入力がカード・出力がタイプライターという方式は、1970年代の汎用機と同じであり、設計思想としては先見にあたる。
- 動作周波数
- 手動による約1Hz(いわゆるステップ実行)、電源交流(東日本)をベースとした25Hz、発振器による約30kHzの三種類を切り替えて使えるようにした。また、遅延記憶装置は温度による速度変動が問題であるが、技術的に難しくなる恒温管理ではなく、動作温度すなわち記憶装置の速度をベースにクロックを作ることで解決している[1]。高速動作時で、加算時間は0.1ms、乗算時間は1.6ms。周波数とフリップフロップは全て同じ場所にランプで表示するようにしたので、会社の幹部や見学者に見せる際に役に立ったという。
- 特許
- 富士写真フイルムから数件申請し全て登録。なかでも「循環回路」(特公昭30-7104であるが、ジョンソン・カウンタと言われているもので、あとから本や雑誌で見て驚いたという[2])はIBMにライセンスした(なお、全く同じものが約10年後に特公昭44-3540として再度出願されている、と岡崎は指摘している[3])。電子部分と機械部分の間にバッファを置く方法、および入出力と本体処理の同時並行は簡単に思いついたので、特許を出さなかった。
同時期の他のコンピュータ
- 民間によるコンピュータの利用は、J・リヨンスという食品会社がEDSACをカスタマイズした「LEO」を、1954年に使用開始したものが世界初とされており、FUJICはこれと比べても、民間使用コンピュータの黎明期にあたる事がわかる。
- 通商産業省工業技術院電気試験所(現在の産業技術総合研究所)が、日本初のデジタル式コンピュータとしてリレー式のETL Mark Iを1952年に、日本初のトランジスタ・コンピュータとして ETL Mark III を1956年にそれぞれ完成させている。
参考文献
- 遠藤諭『計算機屋かく戦えり』アスキー出版局 1996 ISBN 4-7561-0607-2
- (精選版の『日本人がコンピュータを作った!』アスキー新書2010 ISBN978-4-04-868673-0 にも収録)
- 最相力「日本人の手になる最初の電子計算機」『bit』雑誌コード 07607-5 共立出版、連載;1997年5月号、1997年6月号、1997年7月号。