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佐竹 義昭(さたけ よしあき)は、常陸の戦国大名で、佐竹氏の第17代当主。常陸太田城主。
生涯
享禄4年(1531年)8月23日、第16代当主・佐竹義篤の長男として生まれる。
天文14年(1545年)、父の死により家督を相続して第17代当主となる。この頃の佐竹氏は内紛を収拾して、常陸北部を支配する戦国大名に成長していた。このため、常陸統一に向けて勢力拡大に励んだ。
小田政治と共同して江戸忠通と戦い、勝利した。弘治3年(1557年)、宇都宮氏で内紛が勃発すると、当主の宇都宮広綱の宇都宮城への復帰に協力し、のち娘を嫁がせている。永禄元年(1558年)には岩城重隆が常陸に侵攻してくるが、これを小里で破り、婚姻関係を理由に有利な和睦を結んだ。永禄3年(1560年)には結城晴朝を攻めて勝利し、さらに白河晴綱の寺山城を攻めて勝利した。永禄5年(1562年)には上杉輝虎(上杉謙信)と同盟を結んで小山城を攻めた。この年に長男の義重に家督を譲って隠居し、常陸府中城に移ったが、なおも実権は握り続けた。
永禄6年(1563年)には那須資胤と戦って勝利し、永禄7年(1564年)には北条氏康や結城晴朝と手を結んだ小田氏治の攻撃を受けるが、義昭は上杉謙信・宇都宮広綱と手を結んで逆に小田領に侵攻して小田城を奪取し、氏治を土浦城にまで追いつめた(小田城の戦い)。また、継室の実家である大掾氏に乗り込んで、事実上同氏を傘下に収めた。
永禄8年(1565年)11月3日、常陸統一を目前にして突如として急死した。享年35。このため、佐竹氏の常陸統一は後一歩のところでならなかった。
人物・逸話
- 天文15年(1546年)、河越夜戦にて関東管領・上杉憲政が北条氏康に大敗した。憲政は、当時常陸に勢力を拡大して勢いに乗る義昭に、関東管領職と(山内)上杉氏の家名を継承してもらう代わりに保護を求めたという(山内上杉氏から佐竹義人(第12代当主)を婿養子に迎えて以降、佐竹氏は上杉氏の男系子孫となっていた)。しかし、義昭は関東管領職にこそ魅力を感じたようだが、清和源氏の末裔としての佐竹氏の誇りからか、上杉氏の家名を継承する気にはなれず、これを拒否したという。
- 若くして隠居した理由は不明で、35歳の若さで死去していることから、病弱だったのではないかと思われる。
偏諱を与えた人物
- 和田昭為(家臣)