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孫 堅(そん けん)は、中国後漢末期の武将。字は文台(ぶんたい)。呉郡富春県[1]の人。三国時代に成立した呉の皇帝である孫権の父。廟号は始祖、諡は武烈皇帝。
目次
生涯
その出自
清代の『四庫全書』の記載によると、孫堅は春秋時代の兵家・孫武の子孫と伝えられているが、彼の父を初めとして、どのような家柄の生まれであったかは不明である[2]。
孫堅が17歳の時、立ち寄った銭唐において、海賊が略奪を行っている状況に遭遇する。それを見た孫堅は一計を案じた。見晴らしの良い位置に立ち、あたかも大軍を指揮して、海賊を包囲殲滅するかのような身振りをしたのである。それを見た海賊たちは、大軍が攻めてくるものと勘違いし、我先にと逃げ出してしまった。この事件で孫堅は有名となり、役所に召されて仮の尉(警察・軍事担当)となった。
各地で反乱鎮圧
司馬(軍事を司る職)になった孫堅は、会稽郡で起こった許昌の乱を鎮圧した[3]。 この時代、江東一帯には、宗教勢力がいたるところに存在していた。この乱の鎮圧後、孫堅はその功績により、いくつかの県の次官を歴任したが、どこでも評判は良く、役人も民衆も孫堅になついた。また、その間、自らの軍団の強化に努めた。
光和7年(184年)、太平道の張角によって勃発した宗教的な反乱である黄巾の乱の鎮圧のため、孫堅は漢王朝の中郎将であった朱儁の下で参戦。黄巾の渠帥波才撃破に一役買っている。朱儁が汝南・潁川と転戦すると、孫堅もそれに従い軍功をあげていった。宛城の攻略においては、孫堅自ら先頭に立って城壁を登り、西南方面の官軍を率いて大勝利を収めている[4]。 この功績により、別部司馬となった。
中平3年(186年)、昇進すると同時に、涼州で辺章と韓遂が起こした反乱の鎮圧に向かう。当初、反乱鎮圧には中朗将の董卓があたっていたが、情勢は芳しくなかった。そこで董卓に代わり、司空の張温が指揮を執り、孫堅はその参軍として従軍した。董卓の度々の軍規違反に立腹した孫堅は、董卓を処刑するように張温に進言するが、涼州での行動に際して董卓の力が必要と見ていた張温に退けられている。後日、董卓はこの事をいずこからか漏れ聞いて、張温と孫堅を深く憎むようになった。
後漢の討伐軍の大軍が来ると聞いた辺章・韓遂軍は、恐れをなして散りぢりになり、辺章と韓遂は降伏し、孫堅は議郎となった。
孫堅は荊州南部で起こった区星の反乱鎮圧の命を受け、長沙に太守として赴任して、様々な計略を用いて、この反乱を鎮圧した。区星の反乱を援助していた零陵や桂陽の二郡にも進出して、反乱を鎮圧した[5]。 この功績により孫堅は烏程侯に封じられた。
このように、各地で人材を手に入れ、転戦して実戦経験も十分に積んだ孫堅の軍団は、やがて軍閥化した[6]。
董卓との戦い
この頃、洛陽では董卓が実権を握る。永漢元年(189年)、董卓は少帝を廃位し、献帝を擁立、張温を占いの結果の吉凶にかこつけて殺害するなどの横暴を行った董卓に対し、初平元年(190年)、袁紹を中心として諸侯が董卓を討つべく挙兵した。孫堅もこれに応じて挙兵した。孫堅はまず、長沙から北上して荊州を通過する。この時、董卓への反意を表明していたものの、自らに対して日ごろから侮辱的な扱いをしてきた上司、荊州刺史王叡を殺害した[7]。 次は南陽郡太守の張咨で、これも自分にとって禍になるとみて、殺害した。さらに前進して魯陽の袁術に謁見したところ、袁術は上表して孫堅に破虜将軍代行、豫州刺史を領させた。
この後、自軍に損害が出ることを嫌う諸侯が董卓軍とまともに争わない一方で、曹操や孫堅の率いる軍団は董卓軍とぶつかりあっていた。曹操軍が董卓配下の徐栄軍に敗れて脱落した後も、孫堅軍は董卓軍に挑み続け、敗れたこともあったが、初平2年(191年)の陽人の戦いで大勝し、董卓配下の華雄の首を挙げるなどの戦果を挙げていった。董卓は孫堅の勢いに恐れをなし、李傕を使者に立てて懐柔しようと計るが、孫堅がこれを受け入れないとわかると遷都を決断し、洛陽の町を焼き払って、長安へ逃れた。孫堅は洛陽に入った。董卓は陵墓を荒らして宝物を奪い取っていたが、孫堅は陵墓を修復し、暴かれた箇所を塞いでから、再び魯陽の袁術のもとに帰還した[8]。
横死
孫堅は豫州刺史であったが、袁紹は周喁を豫州刺史として派遣したので、孫堅と袁術は周喁・周昻・周昕と豫州を奪い合うこととなった。これにより袁術と袁紹の対立は決定的となり、反董卓連合軍は事実上瓦解し、諸群雄は袁紹と袁術の争いを中心とした群雄割拠の様相を呈しだした。孫堅と袁術は周喁・周昕を敗走させた。
初平2年(191年)あるいは初平3年(192年)、袁術は孫堅を使って襄陽の劉表を攻めさせた[9]。孫堅は、劉表配下の黄祖と一戦して打ち破り、襄陽を包囲した。しかし、襄陽近辺の峴山に孫堅が一人でいる時に、黄祖の部下に射殺された [10] [11]。 享年37。
これにより孫堅軍は瓦解し、敗残の将兵は袁術軍に吸収されることとなった。この後、やがて長子である孫策が袁術から独立し、彼の事業を継ぐ事になる。
『三国志演義』において
- 第二回、黄巾軍の残党の一味である韓忠が守る宛城を皇甫嵩と劉備が攻めている最中に、官軍側の援軍として手勢や義勇兵を率いて駆けつける。彼の容姿は「広い額、大きな顔、虎のごとき体、熊のごとき腰」という堂々たる威丈夫ぶりで描写されている。この時の孫堅はすでに海賊退治や許昌討伐において名を挙げ、下邳県の丞の職にあった。宛城を落とした際に南門攻撃を担当、敵将の趙弘を自ら討ち取るなどの功によって別部司馬に任ぜられる。後に区星の反乱を十常侍の密命により長沙太守として討伐し、烏程侯に封ぜられた。
- 第五回、『演義』において結成される反董卓連合軍に参加した諸侯の一人として登場。長沙太守という肩書きに、江東の虎の二つ名、程普、韓当、黄蓋、祖茂ら四将を率いる陣容とともに、その姿は「白銀に光り輝く鎧を身に付け、赤頭巾を被り、腰には古錠刀をさげ、乗騎は斑のたてがみ」と語られている。董卓への先鋒として名乗りを上げ、初戦で胡軫を討ち取るなど活躍する。しかし、孫堅の活躍に嫉妬した袁術が兵糧を送らなかったために苦戦し、華雄に敗れて追い立てられる中で祖茂を失う。
- 第六回、孫堅は董卓の政略結婚による懐柔をそでにし、焼け落ちた洛陽の復興作業に着手して陵墓を塞ぐ。その最中、宮中の古井戸に身を投げた貴人の遺体から印璽を発見する。程普によって印璽が伝国璽だと判明すると、野心を胸に抱くようになり、発見した玉璽を隠匿する。その現場を目撃した者が袁紹に告げ口したので、孫堅は諸侯の前で釈明を求められる。孫堅はそこで「真実、私が玉璽を隠匿していたなら、命を全うすることなく戦禍によって死ぬ事になるだろう」[12]と啖呵を切り、嘘をつき通したので、諸侯はその言葉を信用する。しかし、袁紹が証人を場に呼ぶと、孫堅は咄嗟に剣を抜き、切り捨てようとする。これら一連の行為によって分の悪くなった孫堅は、洛陽からいち早く陣を引き上げる。諸侯は疑心暗鬼に陥り、反董卓連合軍は解散。ますます疑いを深めた袁紹は、帰途にある孫堅を劉表に攻撃させ、玉璽を奪う事を画策する。
- 第七回、長沙に帰還を果たしたものの、劉表に帰還を妨害された孫堅は兵の大半を失い、劉表に恨みを抱く。些細な事で袁紹と不和になっていた袁術は、孫堅に劉表を攻撃させる事で、袁紹の力を削ぐ事を企て、孫堅に対して江夏攻略を命令する。この戦いにおいて孫堅は、黄祖の守る樊城を落とし、襄陽を包囲すると、囲みを解こうと出撃した蔡瑁にも圧勝する。その最中、包囲軍本陣の帥字旗がにわかに吹き起こった狂風で折れるという凶事が起こった。このため、韓当が「これは不吉の兆しなので退くべきでは」と進言する。しかし、孫堅は聞く耳を持たずに出陣し、蒯良の策謀で呂公がしかけた伏兵の罠にかかり、矢を射かけられ、落石に押し潰されて死亡した。その死体は劉表軍により持ち去られたが、捕虜となっていた黄祖の身柄と引き換えに、この時参陣していた孫策のもとに引き渡された。
評
孫破虜討逆伝に見える孫堅評
- 陳寿の評
- 「勇敢にして剛毅であり、己の力のみを頼りとして身を立て、張温に董卓を討つ事を薦め、董卓によって暴かれた洛陽の山陵を修復した。忠義と勇壮さを備えた烈士である」[13]
- 「行動が軽はずみで、結果を出す事を急ぐあまりに性急であった。そうした様が、自らを死に至らしめ、失敗する原因となった」[14]
- 裴松之の評
- 「同時代、義をもって立った人々の中で、最も忠烈の志があった」[15]
他伝に見える孫堅評
孫堅の没年と死因
孫堅の没年と死因については、陳寿の『三国志』や裴松之が掲載した注釈、あるいは後の史書類によって異同が見られる。以下、列挙する。
- 陳寿の本文
- 初平3年(192年)、荊州の劉表を討伐しようとした際、単独行動中に黄祖配下の兵士によって射殺される。『三国志』劉表伝では、その後に李傕と郭汜の長安侵入が記載されており、孫堅の死は概ね1月から4月までの間と特定される。
- 孫破虜伝・注『典略』
- 没年の記載なし。劉表は籠城を決め込む一方で黄祖を城外に出し、徴兵をさせた。城へ戻る途中で孫堅と交戦し敗北。茂みに隠れていた兵士が追撃をしてきた孫堅を射殺。
- 孫破虜伝・注『呉録』
- このとき37歳。本項では以上の3説を概ね採用した。
- 孫破虜伝・注『英雄記』
- 初平4年(193年)正月7日に死去。死因は劉表配下の呂公が伏せておいた伏兵に遭い、落石が頭部に当たったことによる。死因については『三国志演義』に採用された。なお、『演義』では初平2年11月に死亡したとする。
- 孫討逆伝・注『呉録』内、孫策の上表。
- 孫堅が死んだとき、孫策は17歳だったと記載している。
- 孫討逆伝内・裴松之の考察。
- 孫策の享年(26)から逆算すると、初平3年のとき孫策は18歳であったはずであり、『呉録』上表の記述と一致しない。また、『漢紀』と『呉歴』はそれぞれ初平2年(191年)に死亡したと記述しており、こちらが正しく本伝は間違っていると断定する。
- 『後漢書』孝献帝紀
- 初平3年、界橋の戦い(袁紹と公孫瓚との戦い)の前に記載。董卓の死はさらにその後である。
- 『資治通鑑』巻60・漢紀52
- 初平2年の条に記載。
家系図
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続柄
血族
配偶者
- 呉夫人…呉景の姉
呉夫人の子
庶子
不明
兄弟
甥(従子・族子)
姻族
義弟
脚注
参考文献
- 陳寿著、裴松之 注、「正史 三国志」2巻、井波律子・今鷹真 訳、筑摩書房(ちくま学芸文庫)、1993年01月、68、99頁。ISBN 4-480-08042-2
- 陳寿著、裴松之 注、「正史 三国志」6巻、小南一郎 訳、筑摩書房(ちくま学芸文庫)、1993年05月、9-31、379頁。ISBN 4-480-08046-5
- 陳寿著、裴松之 注、「正史 三国志」7巻、小南一郎 訳、筑摩書房(ちくま学芸文庫)、1993年06月、110、112、158頁。ISBN 4-480-08088-0
- 陳寿著、裴松之 注、「正史 三国志」8巻、小南一郎 訳、筑摩書房(ちくま学芸文庫)、1993年07月、16、224-225頁。ISBN 4-480-08089-9
- 渡辺精一著、「三国志・人物鑑定事典」、学研、1998年05月、300-302頁、ISBN 4-05-400868-2
- 羅貫中作、「三国志全訳全一冊」、村上和行訳、第三書館、1988年03月、20-26頁。
外部リンク
- 王叡は董卓を討つ義兵を起こす前、孫堅が荊州南部で反乱鎮圧を行っていた頃から、彼を武辺者と侮って、言葉による辱めを与えていた。
- 王叡は、孫堅と同じく自身の指令系統下部に属する、武陵太守の曹寅と仲が悪く、「董卓よりも先に、まずは曹寅を殺害してやる」と放言していた。
- 王叡の言葉に恐れをなした曹寅は、公文書を偽造して、孫堅に対して王叡を討てとの朝廷の命令が下ったかのように計った。
- 曹寅が偽造した命令書を受け取った孫堅は、すぐさま兵士を率いて王叡の城を包囲した。
- 王叡は、城が孫堅の兵士に囲まれていると知ると、城を囲む兵士の一人に用向きを聞き、物資を必要としていると知ると、兵士たちを城に招き入れてしまう。
- 兵が至近に近づいた時に、はじめて孫堅の姿を確認した王叡は、孫堅に対して、兵士たちの監督が行き届いていないと詰る。
- 孫堅は王叡の言葉に対して、「朝廷の命によって王叡どのを誅殺しに参ったのだ」と告げる。「自分に何の罪があるのだ」と叫ぶ王叡に対し、孫堅は「ご自分が今、どのような状態にあるかわからない事が罪なのだ」と答える。
- 王叡は進退窮まり、金を飲み込んで服毒自殺を遂げた。