「呉竹」の版間の差分

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テンプレート:Infobox 株式会社呉竹(くれたけ)は、日本の文具メーカー。以前の社名は呉竹精昇堂。本社は奈良市にあり、書道用の墨汁などで知られるメーカーである。他にペン、糊、便箋など紙製品を製造。

近年は、スクラップブッキングを始め、カリグラフィー水彩絵具などクラフト、アート用品も製造しており、アメリカや西欧など海外に幅広く事業展開している。

「呉竹」はもともとは墨汁の商品名。初代社長が学校選定の墨汁作りを熊谷高等女学校(現:埼玉県立熊谷女子高等学校)の書道教師と共同で行い、この学校の同窓会の名が「くれ竹会」だったことに由来する[1]

歴史

製墨業者として創業

創業者である綿谷奈良吉(1868年 - 1947年)は1877年(明治10年)頃から当時有名な製墨業者であった大森徳兵衛の店で墨職人として働き墨作りの技術を磨いた。その後午前4時半から正午まで大森の店で1日分の仕事をした後、自宅で自分の墨を作り他の墨屋の下請けで商品を納めるようになり、この資金をもとに、それまで三条通りの奥に住んでいた家を引き払い内侍原町1番地の藁葺きの家を買い、1902年(明治35年)10月1日に製墨業者として独立した[2]

奈良吉の長男、綿谷楢太郎(1892年 - 1956年)は小学校3年生から家業を手伝い、墨の生産過程を習得し生産面の責任者となり、二男の仙二郎と四男の伍朗は高等小学校を卒業後に販売面を担当し近くの店を廻るようになる。奈良吉は妻コマのアイデアで東京の筆墨卸商平安堂の信用を得、平安堂ブランドの墨を大量に製造し多くの利益を上げることが出来た[3]

奈良吉は自社ブランドで墨を販売するために1924年(大正13年)10月に合名会社精昇堂商会を設立。この名は奈良吉自身の命名で「精密な仕事で上昇する」という意味である。このころ精昇堂は全国の学校を訪問し墨を売り込んでいたが、1926年(大正15年)頃、埼玉県の熊谷高等女学校の同窓会「呉竹会」にその品質を認められたのが縁で、墨のブランドに「呉竹」という名を使うことを許された。それ以降「呉竹墨」が主流製品となり、1932年(昭和7年)8月に組織変更により株式会社精昇堂商会(資本金10万円)となり、1940年(昭和15年)6月に社名を株式会社呉竹精昇堂と改めた[3]

戦後、連合国軍最高司令官総司令部は日本の義務教育における書道の授業を禁止する布告を出す。戦争により衰退気味であった奈良の製墨業界は大きな打撃を受け、約50軒あった製墨業者の半数は転業した。悲観した楢太郎は兵役から戻ってきた2人の息子、綿谷安弘(1920年 - )、綿谷良孝(1923年 - )には家業を継がず他の仕事につくよう勧める。しかしその後、総司令部の方向転換により書道は自由選択科目として復活し文部省学習指導要領も改められると、1950年(昭和25年)頃から楢太郎も二人の弟や息子たちと事業を再開した[4]

戦後の発展、筆ぺん誕生

1956年(昭和31年)奈良市大宮町に大ホールを備えた鉄筋3階建ての新社屋が完成。新製品開発の第1弾として半練り状態の墨をチューブに入れた「墨のかおり」を発売する。しかし全国の校長先生からひどく叱られ売れなかった。1958年(昭和33年)には「墨滴」の名で書道用液体墨を業界で初めて売り出した。の比重をあげて浮かすことで沈殿を防ぎ書面が光らない工夫をしたが、またも叱られ80パーセントもの返品があった。しかし若い先生や塾の先生からはほめられて、これをきっかけに液体墨が主力商品となっていく[5]

1958年(昭和33年)10月にはサインペンマーキングペン)を開発、「クレタケドリームペン」の名で発売した[6]。これは良孝のアイデアで、彼はモリソン万年筆の工場に通って筆記具の製造を学び、東洋紡のエクスラン(アクリル)を芯に使うことを考えついた。このサインペンは飛ぶように売れ外国からも注文が殺到する。これに自信を得た呉竹精昇堂は、1965年(昭和40年)4月に筆記具生産専門の別会社としてクレタケ工業株式会社を創設し、海外との貿易も開始した[7][8]。1968年(昭和43年)にはクレタケ工業の本社ペン工場を奈良市南京終町7丁目492番地に移転[9]1971年(昭和46年)5月からは安弘が本社の社長に、良孝が本社専務とクレタケ工業の社長を兼務する体制となった[7]

こうしてサインペンの海外輸出が製墨と並ぶ経営の柱となっていたが、1971年(昭和46年)のドルショクによるの切り上げは日本の輸出産業に大きな打撃を与え、呉竹精昇堂も貿易から一時撤退することとなり、それにかわる国内での新しい商品の開発が急務となる。そして墨作りの伝統とサインペンで培った筆記具製造技術を結びつけ、手軽に筆文字が書けるペン(筆ペン)の開発プロジェクトに会社の命運を賭けることとなった[6][10]

1973年(昭和48年)11月、2年の歳月をかけ筆のようなペン先にこだわって開発された「くれ竹筆ぺん[11]」は、オイルショック合成樹脂の原料調達に苦労するが、なんとか10万本を製作し関西圏でテスト販売した。画期的なペンの評価は高くもっと商品が欲しいという声が相次ぎ、翌1974年(昭和49年)には需要を411万本と予測し増産体制をとる。夏の暑中見舞いを当て込んだが予想に反して商品は売れず、夏の終わりには不良在庫になるかと心配された。しかし、年賀状商戦にテレビCMの全国展開など販売キャンペーンを繰り広げ12月初旬にはほぼ完売。その知名度が全国に浸透した[6][10]

沿革

  • 明治35年:創業者綿谷奈良吉が奈良市内侍原町で製墨業を開始。
  • 大正13年:合名会社精昇堂商会を興す。
  • 昭和07年:株式会社精昇堂商会を設立。
  • 昭和15年:社名を株式会社呉竹精昇堂とする。
  • 昭和31年:本社を奈良市大宮町に移転。
  • 昭和33年:液体墨「墨滴」を発売。
  • 昭和38年:サインペンを発売。
  • 昭和40年:筆記具生産工場としてクレタケ工業株式会社を設立。文具の貿易を開始。
  • 昭和43年:クレタケ工業のペン工場を奈良市京終町に建設。
  • 昭和48年:「くれ竹筆ぺん」を発売。
  • 昭和61年:イギリスに現地法人KURETAKE U.K.を設立。ゴルフ場向け融雪剤「SRブラック」発売。
  • 昭和62年:水墨画用品を発売。
  • 平成04年:本社・工場を奈良市京終町に移転。
  • 平成06年:呉竹精昇堂とクレタケ工業を合併、新体制での呉竹精昇堂となる。
  • 平成09年:アート&クラフト市場開拓を開始。
  • 平成10年:絵手紙専用のセットを発売。
  • 平成15年:社名を株式会社呉竹とする。

脚注

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参考文献

  • 三島康雄『奈良の老舗物語』奈良新聞社、1999年9月1日。ISBN 4-88856-020-X。

外部リンク

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  1. 串間努『まぼろし小学校』1996年、小学館、ISBN-4093872015 P62。なお現在の熊谷女子高の同窓会は「さくら会」の名称となっている。
  2. 三島1999年 p.36
  3. 3.0 3.1 三島1999年 p.37
  4. 三島1999年 pp.38 f
  5. 三島1999年 p.40
  6. 6.0 6.1 6.2 ニッポン・ロングセラー考Vol.019 くれ竹筆ぺん(平成25年10月閲覧)
  7. 7.0 7.1 三島1999年 pp.40 f
  8. 会社情報|歴史 - 公式サイト(平成25年10月閲覧)
  9. 三島1999年 p.46
  10. 10.0 10.1 筆ぺん誕生秘話 - 公式サイト(平成25年10月閲覧)
  11. 「ぺん」が平仮名なのは毛筆の字体で表現するため。