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'''魚住 景固'''(うおずみ かげかた、[[享禄]]元年([[1528年]]) - [[天正]]2年[[1月24日 (旧暦)|1月24日]]([[1574年]][[2月15日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]。[[朝倉氏]]、後に[[織田氏]]の家臣。[[魚住景栄]]の子。[[魚住景貞]]は曽祖父。通称は彦四郎、帯刀左衛門尉、備後守。 == 生涯 == 享禄元年(1528年)、魚住景栄の子として誕生。 はじめ[[朝倉義景]]に仕え、奉行人として活躍。眼病を患っていたといわれるが、記録によれば[[堀江景忠]]の反乱鎮圧や、[[織田信長]]との戦いに参陣している。しかし、[[姉川の戦い]]では命令に背いて軍を動かそうとせず、天正元年([[1573年]])、朝倉氏が滅亡寸前になると信長に降伏し、織田軍へ[[越前国]]領内の道案内をするなどして、所領を安堵されている。 天正2年(1574年)、越前国において[[富田長繁]]が一揆を起こして[[前波吉継|桂田長俊]]を滅ぼす事件が起きた。そして、同1月14日に長繁によって景固は次男・彦四郎と共に朝食の席に[[龍門寺城]]へと招かれたが、謀られ暗殺された。その翌日には嫡男・彦三郎も討ち取られ、魚住家は滅亡した。なお、長繁は敵対していなかった魚住氏を滅ぼしため配下の一揆衆から見限られ、討たれることとなる。 {{デフォルトソート:うおすみ かけかた}} [[category:戦国武将]] [[Category:1528年生]] [[Category:1574年没]]
魚住景固
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