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'''大西 祝'''(おおにし はじめ、[[元治]]元年[[9月7日 (旧暦)|9月7日]]([[1864年]][[10月7日]]) - [[明治]]33年([[1900年]])[[11月2日]])は、[[岡山市]]出身の[[哲学者]]。'''操山'''と号す<ref>筑摩書房の『[[明治文学全集]]』では、〈大西操山〉で著作一部が収録されている</ref>。「日本哲学の父」「日本の[[イマヌエル・カント|カント]]」との評価も受ける。 == 生涯 == 1877(明治10)年、[[同志社英学校]]普通科に入学。翌年[[新島襄]]より受洗。同志社在学中は[[山崎為徳]]の薫陶を受け、彼の思想形成に大きな影響を与えた。1881(明治14)年山崎が夭逝した時、大西は呆然自失に陥ったといわれる。1884(明治17)年、[[同志社英学校]]神学科を卒業。東京大学予備門に編入学する。1889(明治22)年帝国大学文科大学哲学科を首席卒業(同級に[[大瀬甚太郎]]、[[渡辺董之助]])。1891(明治24)年大学院を辞し、東京専門学校(現[[早稲田大学]])に奉職する([[帝国大学]]の教員にならなかったのは[[キリスト教]]を捨てるように迫られたからだと言われている)。 東京専門学校(現[[早稲田大学]])での彼の活躍は目覚ましく[[坪内逍遥]]と共に早稲田文科の礎を築き、東京専門学校で彼が育てた弟子([[金子筑水]]、[[中桐確太郎]]、[[島村抱月]]、[[綱島梁川]])たちは後年[[早稲田大学]]文学部に欠くことのできないスタッフとなった。また、彼の弟子の一人、[[朝河貫一]]が1895(明治28)年、[[ダートマス大学]]へ留学するときには、渡航費用を援助した。1898(明治31)年哲学研究のためドイツに留学(それに伴い東京専門学校を退職)するも、健康を害して翌年帰国。[[京都帝国大学]]文科大学設立準備に取り掛かるため([[京都帝国大学]]文科大学初代学長に内定していた)入洛したが、病状は悪化し36歳の若さで急逝した。未完に終わったものの彼の研究は後世にも大きな影響を与え、[[西田幾多郎]]の『[[善の研究]]』は大西の『倫理学』と綱島の『病間録』の課題を引き継いだものだとされている。 == 文献類 == 全集(全7巻)が日本図書センターで再刊(初版は警醒社書店 明治37年)。「大西祝選集」[[岩波文庫]]全3巻が、2013年から2014年にかけ刊行。 編者の[[小坂国継]]『明治哲学の研究』(岩波書店、2013年)が刊行された。 明治期の西洋哲学導入にあたって重要な役目を果たした大西と西周の二人を軸にした研究書である。 == 伝記 == *[[平山洋]]『大西祝とその時代』 日本図書センター、1989年。ISBN 4820540025 *片山純一 『大西祝 闘う哲学者の生涯』吉備人出版、2013年 == 注 == <references /> == 関連項目 == * [[岡山県出身の人物一覧]] * [[同志社大学の人物一覧]] * [[早稲田大学の人物一覧]] {{DEFAULTSORT:おおにし はしめ}} [[Category:日本の思想家]] [[Category:日本の哲学者]] [[Category:日本のプロテスタントの信者]] [[Category:同志社の人物]] [[Category:戦前日本の学者]] [[Category:早稲田大学の教員]] [[Category:備前国の人物]] [[Category:神学部出身の人物]] [[Category:東京大学出身の人物]] [[Category:同志社の人物]] [[Category:岡山市出身の人物]] [[Category:1864年生]] [[Category:1900年没]]
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