ゴーサントオ

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テンプレート:Pathnav ゴーサントオ(53・10)とは、旧日本国有鉄道(国鉄)が昭和53年(1978年10月2日に実施した白紙ダイヤ改正を指す、主に鉄道関係者・鉄道ファンの間で使われる通称である。

この改正は、度重なる運賃・料金の値上げや国鉄労働組合(国労)・国鉄動力車労働組合(動労)などが行ったストライキに加え自動車航空機の発達によって国鉄の旅客および貨物の輸送実績が減少したのを受け、特に貨物列車の削減を行うなど、公共企業体・日本国有鉄道の発足以来初めてとなる「列車キロ削減」を行い、輸送体系の見直しを図ったものであった。

ダイヤ改正の背景

1975年(昭和50年)3月10日山陽新幹線岡山駅 - 博多駅間が開業し、国鉄の東京以西における輸送改善は一段落したが、その一方で累積赤字は深刻なものとなっていった。この状況を打開するため国鉄は合理化に着手しようとしたが、この頃国鉄内部の労使関係は極度に悪化し、本社が一つの施策を行おうとする際も、その都度各労働組合に対して了承を取らねばならなかった。

1975年(昭和50年)11月には国労動労などによる8日間のストライキが行われ、国鉄に対する国民の信用やイメージも大きく損なわれた。国鉄はやむなく運賃・料金の値上げによって収支の改善を図ろうと1975年(昭和50年)11月20日に料金を平均32%値上げ(グリーン車は92%値上げ)し、更に翌1976年(昭和51年)11月6日には運賃・料金の50%値上げに踏み切った。短期間に2度の極端な値上げを行ったことで、三大都市圏では私鉄に、新幹線を含む長距離輸送では航空路線に旅客が大きく逸走し、国鉄は利用客を急速に失う結果となった。従来、グリーン車やA寝台などは常に利用客で賑わっていたが、値上げ後は空席が目立つようになった。

またこの頃は日本経済もオイルショックなどの影響で高度経済成長から安定成長に移行していた時期でもあり、原油価格の値上げで世界的不況にもなっていたため、国民からの反発を一層強めた。そんな状況下でも国鉄は収支改善のため運賃・料金の値上げを行わざるを得ず、運賃法定制が崩され大臣のハンコ一つで値上げが可能となったことも相まって(「国鉄運賃値上げ自由化法」)、1978年(昭和53年)から民営化直前の1986年(昭和61年)まで、1983年(昭和58年)を除き毎年のように運賃や料金の値上げが実施され、「春の風物詩」とまで言われるほどになった。

このように国鉄を取り巻く状況が悪化していた中で実施されたのがこの「ゴーサントオ」ダイヤ改正である。全体的には増収促進と支出抑制を目的とした施策が中心となっており、列車系統の見直しも各所で行われた。

ダイヤ改正の内容

急行の特急格上げ

国鉄では、急行列車特急列車に格上げすることで増収を図ろうとし、常磐線では特急「ひたち」を増発した代わりに同量の急行を削減した。また、利用客が少なかった急行列車も削減・廃止され(特に山陽本線の夜行列車)、このダイヤ改正では特急を36本増発した代わりに急行が57本削減された。この改正では特急列車に原則として自由席が連結されるようになったことに加え、紀勢本線の電化が完成し特急「くろしお」に振り子式車両381系電車が投入された。

新幹線

国労はこの改正に先立ち、騒音振動が沿線住民に与える影響を名目とし、過渡的措置として新幹線の最高スピードを160キロ、市街地では110キロに抑えるように提言していたが、国鉄当局がこの提案をダイヤ改正で反映することは無かった[1]

なお、市街地での最高速度制限は1985年に延伸された東北・上越新幹線大宮駅以南で実現した(東北・上越新幹線反対運動を参照)。

東北本線・高崎線の規格ダイヤ化

輸送客が減少したとはいえ、東京以北の東北本線高崎線常磐線といった路線では、まだ東北新幹線上越新幹線が開通していないため特急・急行・普通・貨物といった各列車がひしめきあい、線路が酷使されて列車が異常な振動を起こすまでに至っていた。そんな中でも列車を増発する必要があったため、規格ダイヤを導入して特急列車の運転速度を若干低下させる苦肉の策がとられた。例えば上野駅 - 新潟駅間の「とき」では約15分、上野駅 - 青森駅間の「はつかり」では約30分ほど所要時間が延びた。さらに座席を増やすため、一部の東北・上越系統の特急列車では食堂車の連結を取りやめ、座席車を増結させた。

列車愛称番号の方式変更

同一系統の列車が何本も存在する場合、「ヨンサントオ」改正以後は列車愛称は原則として一つにして「あずさ1号」のように番号で識別する方法がとられるようになった。しかし新幹線では1964年(昭和39年)10月の開業以来列車番号に付随する形で「下り列車には奇数番号を、上り列車には偶数番号をつける」方式が採用されていたものの、在来線では「上り・下りとも発車する順番に1・2・3・・・とつける」方式がとられ、「 - 1号」・「 - 2号」・・・が上下両方向の列車にも存在していた。

この改正では在来線でも新幹線同様に「下り奇数・上り偶数」の列車番号方式を採用し、座席指定券の誤発券防止や途中駅からの乗り間違い防止などに大いに役立った。

なお、1977年(昭和52年)3月に発売された狩人のデビュー曲「あずさ2号」は新宿駅松本駅行きの下り列車を歌ったものであるが、このダイヤ改正で「あずさ2号」は甲府駅発新宿駅行きの上り列車(現在の「かいじ」に相当する)のみに変更されたため、歌詞に該当する列車は曲の発売開始から僅か1年半で消滅した。このダイヤ改正を掲載した日本交通公社(現、JTB)発行の大型版時刻表でもそのことを意識したのか、列車愛称番号の変更についての案内で、具体例として「あずさ2号」を取り上げた。

特急電車先頭愛称表示のイラスト化

ダイヤ改正以前は、電車及び気動車の特急列車の先頭に表示する愛称は文字のみで表示されていた[2]が、この改正から各種イラストを入れたものが列車愛称幕を用いた電車特急でまず採用された。これは特に子供などに好評であったため、後には行灯ヘッドマークを用いていたボンネット型車両や気動車・客車列車(客車側)にも拡大された。描いたのは当時、国鉄のデザイナーだった黒岩保美であるテンプレート:要出典

貨物列車の大幅削減

高速道路網の整備、トラック輸送の発達に加え、さらには労使関係悪化による争議行為の頻発で荷主の信用を失ったこともあって、国鉄の貨物取扱量は急速に低下していた。国鉄貨物局が執筆した記事によれば、昭和40年代(1965年-1974年)の国内総物流が10年間でほぼ2倍に増加したのに対して、国鉄貨物の輸送量は1971年までは横ばい、1972年からは急減していった。一方で、貨物列車設定キロは53万 - 55万キロの間で推移を続け、1975年度で見た場合、輸送量との乖離は25%に及んでいた(なお、1975年度の列車設定キロは55万キロ)。そのため、空の貨車をたらい回しする貨物列車が多数存在していた。

『今後の国鉄貨物営業について』の提示

この傾向を問題視した国鉄当局はスト権スト直後の1975年12月31日の閣議了解で国鉄再建対策要綱が通過したことを受けて、下記のように

「当面昭和55年度(1980年度)において貨物固有経費で収支均衡することを目標」

として、貨物輸送の見直し作業を実施した。その方向性としては荷主の輸送需要への対応、鉄道貨物輸送が本来持っている優位な特徴の回復などを主眼とし、近代化計画を織り込んだものだった。この結果は1976年12月20日に『今後の国鉄貨物営業について』という冊子に纏められ、各労組を含む関係各方面にも配布された。

『今後の国鉄貨物営業について』で示された近代化目標は下記のようになっている[3]

  • 列車体系の再編成
    • 1975年度輸送量との乖離約25%、列車設定キロ14万キロを削減
    • 1980年度列車設定キロ約41万キロ、列車設定本数約3500本。
  • 貨物駅集約
    • 約500駅集約し、1980年度末までに約1000駅体制
  • ヤード統廃合
    • 約70箇所を廃止し、1980年度末までに指定ヤード数を155前後とする。
  • 車両関係
    • 貨車約2万両を削減し、1980年度末までに国鉄所有貨車を約10万両とする。
    • 機関車約600両を削減し、1980年度末までに約2700両とする。
  • その他
    • 自動化、継電化の推進、作業体制、勤務体制を抜本的に見直す。

このように、内容は再建対策要綱で求められていた予算人員の削減を反映した、貨物部門の縮小と人員縮減を含むものであった。各労組は労使協調路線を取る鉄道労働組合も含めてこの指針に反発した。しかしその一方で、各労使は数次に渡り国鉄当局と協議を実施していた。

協議の中で組合側が問題視したのは貨物要員縮減の他に、本数減といった策が、当局側が目標としている輸送量の確保に反する、中小荷主の切捨てであると言った指摘もあった。当局側は、近代化は中小荷主を切り捨てるものではないと反論した。

なお、国労は大口の大企業向け輸送列車についてはスト権スト後も引き続きストの標的にする旨宣言を行っていた[4]。また、1976年11月に出した『国鉄再建のための緊急提案』では貨物について次のような提案を行っている[1]

  • 貨物運賃はコストをまかなえる水準まで引き上げる
  • 特定大企業のための政策割引は中止する
  • 日常生活物資の輸送については物価対策上政策割引を行い、その場合原価との差額は公債が負担すべき

また、動労は1977年2月3日の『動労新聞』号外にて「国鉄問題に関する専門報告書」を掲載した。この報告ではスタンスとして反対を維持しつつも、「貨物削減問題に対する闘いにおけるようにたしかに現実的には貨物が無いから列車が運休なり削減されることは一般的には否定しえない事実である」と述べており、一部の学者からは「闘いにおける不利な情勢は、世論をできるかぎり味方につけようと努力すること」「世論のかなりの部分がその「事実」から「ある程度の人員整理はやむを得ない」という結論をひきださないよう、大いなる説得力を発揮しなければならない」と批判され、その学者により「説得の論理」の文案が提示されている[5]

計画概要の発表

改正に関わる国鉄の関連部局は労組との協議を継続しつつ、成案となった部分をまとめ『昭和53年10月期にかかわる計画概要』として1977年8月18日に各組合に提示した。その概要は下記のようになっている[3]

  • 輸送計画:下記を実施し、1978年度の列車設定キロを約45万キロとする
    • コンテナ輸送、物資別適合輸送の着実な推進
    • 一般車扱輸送体系の単純化、効率化
  • 貨物駅集約:駅体制から自動車との協同輸送、および荷役の近代化に対応した近代的な駅体制への転換を図る
    • 1977年度計画:180駅
    • 1978年度計画:96駅
    • 1979、1980年度目標:約300駅
  • ヤード再編成
    • 1978年度まで:26箇所
    • 1979、1980年度目標:約40箇所
  • 車両関係
    • 機関車:1978年度輸送改善により約300両の縮減
    • 貨車:1978年度末の保有数は約10万両とし、これに伴い平年ベース以上の廃車とする
  • 車両基地:上記縮減に対応し、検修基地の集約を実施
    • 機関車検修基地:検討中
    • 貨車検修基地:
      • 1977年度7箇所
      • 1978年度11箇所
      • 1979、1980年度目標15箇所
  • 工場:貨物職場が小規模となる工場においては、貨車職場と他職場との統廃合を実施

この提案の時点で、集約対象の貨物駅の実名が挙げられている。貨物駅集約については荷主への影響も大きい為、マスコミを通じて部外へも公表した。1976年7月2日、日本経済調査会の「交通論議における迷信とタブー」で安楽死論が登場していた[6]が、貨物局としては1981年度以降の増送を目標とした体制立て直しを建前としており、「V字型反騰を目指して」「「安楽死」論の立場に立つものではない」と明言していた[7]

実施ダイヤなど

結果として実施されたダイヤでは、1976年10月ダイヤ改正に比べて貨物列車を664本削減して4,232本、列車キロも6.5万km削減して47万kmとした。また操車場や貨物取扱駅の削減も実施した[8]

なお、続く1980年10月のダイヤ改正ではさらに6.1万kmの列車キロを削減し、列車設定キロにおいて『今後の国鉄貨物営業について』で目標とした削減をほぼ達成した。しかし輸送量は計画を大きく下回り、運賃値上げにもかかわらず収入が減少して、収支係数がさらに悪化する事態となった[9]。以降1984年の集結輸送の廃止まで削減傾向が定着することになる。

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist


テンプレート:国鉄・JRダイヤ改正
  1. 1.0 1.1 国労の新幹線のスピードダウン、貨物運賃引き上げ要求に関しては下記。
    「国鉄再建に関する緊急提案」 国鉄労働組合 1976年11月
    「国鉄再建・民主化問題関係基本資料」『労働経済旬報』1977年6月10日 P92-95に転載
  2. 客車の寝台特急には従来よりイラストの入ったヘッドマークが機関車の前部に装着されており、このダイヤ改正の時点では東京駅発着の一部列車に掲示されていた。
  3. 3.0 3.1 「今後の貨物営業について」および計画概要については下記より抜粋、要約。
    「今後の国鉄貨物営業について」『国鉄線』1977年11月P6-7
  4. 「スト権ストの賠償訴訟出れば 貨物中心に抵抗闘争」『朝日新聞』1975年12月20日2面
  5. 湯川利和「国鉄貨物合理化と政策要求について」『労働法律旬報』1977年6月10日
  6. 『毎日新聞』1976年7月3日
    角本良平「第4章 歴史への評価」『鉄道政策の検証』P230 白桃社 1989年
  7. 「今後の国鉄貨物営業について」『国鉄線』1977年11月P8
  8. 『貨物鉄道百三十年史』中巻pp.312-313
  9. 『貨物鉄道百三十年史』中巻pp.314-316