1966 FIFAワールドカップ
テンプレート:国際サッカー大会情報ボックス 1966 FIFAワールドカップ(テンプレート:Lang-en-short)は、1966年7月11日から7月30日にかけて、イングランドで開催された第8回目のFIFAワールドカップである。地元イングランドが決勝で西ドイツを4対2で破り、史上5ヶ国目の優勝を遂げた。W杯としては、初めてこの大会からテクニカル・スタディー・グループ(試合を分析し、技術や戦術、傾向などを分析し、試合ごとのテクニカルリポート及び大会の総括リポートを作成するグループ)が導入された[1]。
目次
予選大会
出場国
出場選手は1966 FIFAワールドカップ参加チームを参照。
大陸連盟 | 出場 枠数 |
予選大会 | 組 予選順位 |
出場国・地域 | 出場回数 | |
---|---|---|---|---|---|---|
UEFA | 1+9 | 開催国 | テンプレート:ENGf | 5大会連続5回目 | ||
欧州予選 | 1組 | 1位 | テンプレート:Flagicon2 ブルガリア | 2大会連続2回目 | ||
2組 | 1位 | テンプレート:FRGf | 4大会連続6回目[2] | |||
3組 | 1位 | テンプレート:FRAf | 2大会ぶり6回目 | |||
4組 | 1位 | テンプレート:PORf | 初出場 | |||
5組 | 1位 | テンプレート:SUIf | 2大会連続6回目 | |||
6組 | 1位 | テンプレート:HUN1957f | 4大会連続6回目 | |||
7組 | 1位 | テンプレート:URS1955f | 3大会連続3回目 | |||
8組 | 1位 | テンプレート:ITAf | 2大会連続6回目 | |||
9組 | 1位 | テンプレート:ESP1945f | 2大会連続4回目 | |||
CONMEBOL | 1+3 | 前回優勝国 | テンプレート:BRA1960f | 8大会連続8回目 | ||
南米予選 | 1組 | 1位 | テンプレート:URUf | 2大会連続5回目 | ||
2組 | 1位 | テンプレート:CHIf | 2大会連続4回目 | |||
3組 | 1位 | テンプレート:ARG1812f | 3大会連続5回目 | |||
CONCACAF | 1 | 最終予選 | 1位 | テンプレート:MEX1934f | 5大会連続6回目 | |
CAF/AFC/OFC | 1 | 最終予選 | 1位 | テンプレート:PRKf | 初出場 |
本大会
概要
前回大会と同じ開催方式で行われた。地域予選を突破した16チームを4カ国ずつ4つのグループに分け、各グループの1位と2位チームが決勝トーナメントに進出する。なお、FIFAは今回から出場選手へのドーピング検査を導入したが違反者は出なかった[3]。
観客数はそれまでの大会の中で最多であったが、ディフェンス戦術の進化により、50年代に多く見られた双方ノーガードで壮絶に殴り合うような凄まじい点の取り合いや前回大会のようなゴールラッシュは激減、最小限の得点を守りきるという長丁場を乗り切るため省エネを意識した戦いが主流となった。アルフ・ラムゼイ監督に率いられたイングランド代表はその典型で、グループ1を1位で通過したが3試合の合計得点は僅かに4点、しかしながら名DFボビー・ムーア、ジャッキー・チャールトンや名GKゴードン・バンクスの活躍により失点は0であった。ウルグアイが2位で通過し、メキシコとフランスがそれぞれ3位と4位で大会を去った。今大会をもって引退したメキシコのGKアントニオ・カルバハルは実に「5大会連続出場」という前人未到のワールドカップレコードを打ち立てた[4]。
グループ2は、西ドイツとアルゼンチンがそれぞれ2勝1引き分けの勝点5でグループリーグを通過した。西ドイツは20歳の新星フランツ・ベッケンバウアーが華々しくデビュー、早くもレギュラーに定着して4得点を挙げ決勝進出にも大きく貢献した。スペインはスイスに勝利した勝点2のみであり、スイスは3連敗を喫して共に姿を消している。
グループ3では前回優勝国のブラジルが、ポルトガルとハンガリーの後塵を拝する形で3位となり、ブルガリアと共にグループリーグで姿を消したため大会3連覇は成らなかった。4年前の前回優勝国がグループリーグで敗退するというショッキングかつ屈辱的な結果はワールドカップ史上初であった[5]。この不名誉な記録は2002年に日韓大会でフランスが敗退するまでブラジルが独占することになる。しかし、エースのペレ、ガリンシャを潰すため露骨なまでに悪質なファウルを繰り返したブルガリアとポルトガルの「勝つためには手段を選ばない」態度はFIFAに危機感を抱かせるに充分であり、次回からダーティなラフプレーを防止すべくレッドカード、イエローカードが導入される呼び水となる。
グループ4では初出場の北朝鮮が朴斗翼のシュートによりイタリアを1対0で下し、台風の目となった。この結果、北朝鮮は1勝1敗1分のグループ2位となり、アジア勢としてのワールドカップ初勝利とグループリーグ初突破を果たしてソ連と共に決勝トーナメントに進出した。北朝鮮の大会前の評価は非常に低く、北朝鮮の大会前の賭け率は500対1であったが、当時の北朝鮮は今以上に情報が洩れてこない国だった[6]。この時の北朝鮮は、東欧の社会主義国と親善試合を行い強化され、小柄だが力強く運動量豊富でスピードがあり、技術的にも正確なチームであった[7]。北朝鮮が、イタリアを1-0で下した試合を各国の記者は、「1950年ブラジルW杯でアメリカがイングランドに勝った試合(W杯史上最大の番狂わせ【世紀のアップセット】)に匹敵する大番狂わせだ」と大々的に報道した[6]。なお、イタリアの選手たちはこっそり帰国したものの、ローマの空港で待ち構えていた怒り心頭のファンの集団に見つかり、腐った卵やトマトを投げつけられるという“屈辱”を味わっている。前回ホスト国で3位入賞の健闘を見せたチリだったが、今回は全く良いところなく2敗1引き分けとグループ最下位で大会を去った。
準々決勝で西ドイツはウルグアイを4対0の大差で下した。北朝鮮はポルトガルを前半25分までに3対0とリードしており、準決勝進出は確実と思われた。しかし、今大会の得点王となる”モザンビークの黒豹”エウゼビオが4得点を決め、同じくポルトガル代表のアウグストが後半33分に5点目を決め、ワールドカップレコードとなる大逆転で5対3と試合を引っくり返して準決勝に進出した。ソ連はGKレフ・ヤシンの鉄壁の守備でハンガリーを1点に抑え、2対1で下した。イングランドはアルゼンチンを1対0で下し、4試合連続無失点で終えた。
準決勝はいずれも2対1であった。ベッケンバウアーが決勝点を挙げた西ドイツがソ連を下し、ボビー・チャールトンが2得点を決めたイングランドがポルトガルを下した。無失点を続けてきたイングランドだったが、ここでエウゼビオにPKを決められて遂に初失点を記録してしまう。
地元イングランドと西ドイツの顔合わせとなった決勝戦はサッカーの総本山、ロンドンのウェンブリーで行われ、観客数は97,000人に達した。試合は追いつ追われつの展開で両雄相譲らず、2対2で延長戦に突入した。そしてワールドカップ史上最大の議論を巻き起こした問題のシーンが延長前半10分過ぎに訪れる。ジェフ・ハーストがシュートを放ち、クロスバーに当たりほぼ真下に跳ね返った後、西ドイツの選手によってクリアされた。ゴールを確認できなかった主審は線審に確認を求め、線審は得点が決まったと伝えたため、イングランドが3対2とリードした。西ドイツ側はこの判定に猛然と抗議したが覆らなかった。サッカーで得点が認められるためには、ボールがゴールラインを完全に越える必要があり、当時から実際にゴールが決まったかどうか、激しい議論の的になった。スローモーションも多元中継も無かった当時の技術では、一般の視聴者だけでなく専門家であっても得点を判断するのは不可能であった。1995年にオックスフォード大学の研究者が、当時最新のコンピュータを用いた解析を行い、ボールは線上にあり、得点は認められるべきではなかったと発表した。いずれにしろ主審が得点を認めた判断が尊重され、記録に残ることになる。ドイツでは今も「あれはノーゴール」として認めていない。ハーストは120分にもゴールを決め、ワールドカップ史上唯一となる決勝でのハットトリックを達成、試合を4対2と決定的にした。ゴールの笛を試合終了の笛と勘違いした観客がピッチになだれ込み、その後まもなく試合終了の笛も吹かれた。なお、その後のイングランド代表は1990年イタリア大会でのベスト4が最高成績であり、決勝進出を果たしたのは今大会のみという状況である。正にワンチャンスをモノにした感が深いイングランドの優勝であった。
イングランド代表は、優勝式典で女王エリザベス2世から、ジュール・リメ杯を受け取った。
エピソード
- ピクルスという名前の1匹の犬が今大会を救ったヒーローとして有名になった。大会を盛り上げるために展示されていたジュール・リメ杯が何者かによって盗まれ、最終的にロンドンのとある藪の中に新聞紙に包まれているのをピクルスが発見したのである。
- この大会の決勝で、延長戦前半11分にイングランドのハーストが打ったボールがクロスバーに当たった後地面に落ち、その後このきわどいゴールが認められる「疑惑のゴール」事件があった。この44年後、ドイツ対イングランドの顔合わせとなった2010年南アフリカ大会の決勝トーナメント1回戦の前半、イングランドのフランク・ランパードがハーストと同じようなシュートを放った。クロスバーに跳ね返ったボールは確実にゴールインしていたが主審はこれを「ノーゴール」と判定し、今度は逆にドイツが幸運を得ることとなった(試合は4対1でドイツの勝ち)。
会場一覧
競技場 | 都市 |
---|---|
ウェンブリー・スタジアム | ロンドン |
ホワイトシティ・スタジアム | ロンドン |
ヴィラ・パーク | バーミンガム |
ヒルズボロ・スタジアム | シェフィールド |
グディソン・パーク | リヴァプール |
オールド・トラッフォード | マンチェスター |
ローカー・パーク | サンダーランド |
アイルサム・パーク | ミドルズブラ |
結果
グループリーグ
グループ 1
順 位 |
チーム | 勝 点 |
試 合 |
勝 利 |
引 分 |
敗 戦 |
得 点 |
失 点 |
点 差 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | テンプレート:ENGf | 5 | 3 | 2 | 1 | 0 | 4 | 0 | +4 |
2 | テンプレート:URUf | 4 | 3 | 1 | 2 | 0 | 2 | 1 | +1 |
3 | テンプレート:MEX1934f | 2 | 3 | 0 | 2 | 1 | 1 | 3 | -2 |
4 | テンプレート:FRAf | 1 | 3 | 0 | 1 | 2 | 2 | 5 | -3 |
グループ 2
順 位 |
チーム | 勝 点 |
試 合 |
勝 利 |
引 分 |
敗 戦 |
得 点 |
失 点 |
点 差 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | テンプレート:FRGf | 5 | 3 | 2 | 1 | 0 | 7 | 1 | +6 |
2 | テンプレート:ARG1812f | 5 | 3 | 2 | 1 | 0 | 4 | 1 | +3 |
3 | テンプレート:ESP1945f | 2 | 3 | 1 | 0 | 2 | 4 | 5 | -1 |
4 | テンプレート:SUIf | 0 | 3 | 0 | 0 | 3 | 1 | 9 | -8 |
※西ドイツが得失点差でグループ1位に。
グループ 3
順 位 |
チーム | 勝 点 |
試 合 |
勝 利 |
引 分 |
敗 戦 |
得 点 |
失 点 |
点 差 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | テンプレート:PORf | 6 | 3 | 3 | 0 | 0 | 9 | 2 | +7 |
2 | テンプレート:HUN1957f | 4 | 3 | 2 | 0 | 1 | 7 | 5 | +2 |
3 | テンプレート:BRA1960f | 2 | 3 | 1 | 0 | 2 | 4 | 6 | -2 |
4 | テンプレート:Flagicon2 ブルガリア | 0 | 3 | 0 | 0 | 3 | 1 | 8 | -7 |
グループ 4
順 位 |
チーム | 勝 点 |
試 合 |
勝 利 |
引 分 |
敗 戦 |
得 点 |
失 点 |
点 差 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | テンプレート:URS1955f | 6 | 3 | 3 | 0 | 0 | 6 | 1 | +5 |
2 | テンプレート:PRKf | 3 | 3 | 1 | 1 | 1 | 2 | 4 | -2 |
3 | テンプレート:ITAf | 2 | 3 | 1 | 0 | 2 | 2 | 2 | 0 |
4 | テンプレート:CHIf | 1 | 3 | 0 | 1 | 2 | 2 | 5 | -3 |
決勝トーナメント
準々決勝
準決勝
3位決定戦
決勝
優勝国
得点ランキング
ベストイレブン
脚注
外部リンク
テンプレート:Navbox- ↑ http://www.sanspo.com/soccer/news/20140405/jpn14040504550000-n3.html 日本人初!宮本氏、TSG「世界の10人」入りP3](SANSPO.com2014年4月5日)
- ↑ 旧ドイツ時代を含む。
- ↑ 初めて違反者が出るのは74年西ドイツ大会でのハイチ代表からであった。
- ↑ 後に98年フランス大会でドイツのローター・マテウスがタイ記録を達成した。但しマテウスの場合、82年・86年・90年は西ドイツ代表として、94年・98年はドイツ代表としての出場であり、純粋に同一名義の代表で達成したのはカルバハルのみである。
- ↑ 前回優勝国がグループリーグ敗退したのは厳密に言うと1950年ブラジル大会でのイタリアが最初であるが、この場合そもそも前回優勝が第二次世界大戦を挟んだ1938年と大きく間が開いていた上に、当時の代表主力メンバーの大半を前年にスペルガの悲劇で失った末の結果であり、前回優勝メンバーが大半を占めていた今回のブラジル敗退とは全く意味合いが違う。
- ↑ 6.0 6.1 素朴な疑問探究会編「[サッカー]がもっとわかる本」1998年、P180~P182
- ↑ 国吉好弘「サッカーマルチ大事典改訂版」2006年