陳騫

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陳 騫(ちん けん、200年? - 281年?)は、中国三国時代から西晋にかけての軍人、政治家。・西晋に仕えた。休淵徐州広陵郡東陽県の人。父は陳矯。兄は陳本。弟は陳稚。子は陳輿。孫は陳植。曾孫は陳粋。

経歴

若いころから度量と胆力を備えた性格であった。父が曹叡(明帝)に疎んじられた際、兄がただうろたえるのみであったのに対し、陳騫は父を励ましたという逸話が残る。また、陳騫は兄と夏侯玄が宴会をしていた際、その場に同席しようとして当時の名士であった夏侯玄から不興を買ってしまったが、気に留めようともしなかったため、かえって夏侯玄に評価された。

司馬師が実権を握った時代、兄が国政の中心にいたが、陳騫は尚書の地位に留まっていた。254年曹芳(斉王)が司馬師に廃されたとき、その印綬を取り上げるよう上奏した群臣の中に、尚書陳騫の名が見える。曹髦(高貴郷公)の時代にも尚書の地位にあり、文学を愛好していた曹髦の面前で詩が上手く作れず、罷免されそうになったことがあったが許されている。

魏においては郡太守を経た上で、相国の属官になったと伝わる(当時の相国は司馬昭である)。司馬昭の時代になり、ようやく陳騫の待遇は向上したようで、侯の爵位を得ると共に尚書のままでの節や将軍職などの軍権も任されるようになったという。また蜀漢との戦いにも参加し、257年諸葛誕の反乱鎮圧にも参加した。寿春平定後、まもなく都督江南諸軍事や荊州諸軍事を任されるようになり、征南将軍に昇進し、呉と対峙した。263年に蜀が滅亡し、旧蜀の羅憲が呉の攻撃を受けると胡烈を救援に派遣した。司馬昭が没すると、子の司馬炎(武帝)への禅譲に協力し、265年に晋が成立すると車騎将軍になった。都督揚州諸軍事として、引き続き呉と対峙した。

胡烈と牽弘の資質について疑問を持ち、二人を重用しないよう諫言したが、司馬炎は引き続き二人をそれぞれ州刺史として任用した。結果二人は異民族の反乱により戦死した。

司馬炎の側近である賈充石苞裴秀といった人物の中でも陳騫の性格は抜きん出ており、賈充達もそれを認めていたが、賈充と違い武人的な性格であったため政争には疎かった。咸寧期には太尉大司馬と重職を歴任したが、老齢であったこともあり、早々に引退を申し出た。晩年は弟と子が些細なことで争ったため、陳騫の名声も些か損なわれたという。没年については晋書の記録に齟齬があるため確定できないが、「武帝紀」によると281年に没し、「陳騫伝」によると81歳であったとされている。

参考