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省籍矛盾
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'''省籍矛盾'''(しょうせきむじゅん)とは、[[台湾]][[本省人]]と[[外省人]]の人口割合と両者の社会的な権力配分の逆転(不均衡)から生じる諸矛盾のことで、戦後の台湾社会が抱える最も重要かつ基本的な問題のひとつ。[[二・二八事件]]、[[中レキ事件|中壢事件]]、[[美麗島事件]]など、台湾民主化に関連する一連の政治的事件の伏線ともなっている。 == 歴史的背景 == [[第二次世界大戦]]での[[日本]]の敗戦に伴う[[台湾]]の植民地統治からの離脱と中国による接収([[台湾光復|光復]])後、[[中国大陸]]での[[国共内戦]]に敗退した[[中国国民党]]政府が台湾へ撤退すると、それに伴って国民党の官吏や軍の兵士を中心に多数の大陸出身者が台湾に移り住んできた。台湾では従来、域内の社会集団(「族群」)を区分する際に、この時期中国大陸から台湾へと流入した大陸出身者とその子孫を「外省人」と呼び、それ以前から台湾に居住していた「本省人」とは異なる社会集団として区別することが一般的に行われている。 台湾住民のうち外省人の占める割合は約15%程度といわれており、人口比で見る限りでは、本省人の方が圧倒的多数を占める。しかし、台湾に渡ってきた国民党は、政府の要職を大陸出身の外省人で固め、また日本から接収した企業を国有化して利権を独占するなど、本省人を意識的に政治的・経済的な支配勢力から締め出した。そのため、日本の植民地統治から離脱して自分たちの国が作れるものと思い、当初光復後の国民党統治に大きな期待を抱いていた本省人たちは、やがてそれに深く失望するようになり、本省人の間で社会的不満が増大した。また、社会的に優位な立場に立つこととなった外省人勢力が、植民地統治時代に[[日本]]の[[皇民化教育]]を受けた本省人を蔑視するような態度をとったことなどにも起因して、両者間で相互不信が増大し、社会的な亀裂が深まった。 そのような社会状況を背景として[[1947年]]に[[二・二八事件]]が勃発すると、国民党は知識人を中心に本省人の大量粛清を行い、本省人勢力を抑えるとともに、これと前後して「[[動員戡乱時期臨時條款]]」の制定(及び延長)による[[憲法]]の凍結、[[戒厳令]]施行、[[政党]]結成の禁止([[党禁]])など、本省人に対する一連の政治的締め付けを打ち出し、外省人と本省人の間での身分の固定化を図った。[[1948年]]に動員戡乱時期臨時條款が延長され、大陸選出の[[国民大会代表]]および[[立法委員]]改選が無期限延期となった結果、[[動員戡乱時期]](動乱による非常事態)終結が宣言される[[1991年]]まで実に40年以上に渡り大陸選出の議員が一度も改選されず、半ば身分が終身化したことなどはその一例である。その結果台湾では、人口では多勢を占める本省人が支配階級に組み込まれないといったいびつな社会構造が永年にわたって続くこととなった。また、そのような社会構造を是正し、民主的な社会を実現しようとする本省人と外省人との間でしばしば衝突が発生し、時としてそれが中壢事件([[1977年]])や美麗島事件([[1979年]])のような政治的事件にまで発展した。 == 省籍矛盾の希薄化と「新台湾人意識」の台頭 == 第6代[[中華民国総統]]に就任した[[蒋経国|蔣経国]]が70年代末に民主化を進めると、台湾社会では従来権力の外側に置かれてきた国民党以外の政治勢力([[党外]])を中心に省籍矛盾に風穴を開けようとする政治的な動きが活発化し、上述した中壢事件や美麗島事件のような政治的事件を生み出した。そして[[1990年]]に第8代[[中華民国総統]]に就任した[[李登輝]]の下で民主化が加速すると、これまでタブーとされてきた二・二八事件に対する総統の謝罪や政治犯の釈放、犠牲者の名誉回復などを通じた事件の清算、大陸選出の[[国民大会]]代表([[万年議員]])の解任や本省人の政府要職への積極的な登用などを通じた社会的身分の流動化などの動きが生じ、それに伴って人々の省籍に対する考えにも大きな変化が生じた。 加えて戦後50年以上が経過する中で本省人と外省人との通婚が進んだこと、外省人であっても台湾生まれの戦後世代が社会の中心を占めるようになったことなどもあり、現在では省籍に関する意識は以前に比べればかなり希薄化しつつある。また、そのような状況下で、本省人・外省人という区別も所詮は台湾に移住してきた時期の相対的な差異でしかなく、「時期の早晩を問わず、台湾に渡ってきた者は『[[新台湾人]]』」とする「[[新台湾人意識]]([[新台湾人論]])」といった考えも台頭してきており、戦後世代を中心に多くの共感が寄せられるに至っている。 一方で国政選挙となると外省人の投票傾向は国民党に入れることが多く、メディアの誇大報道により省籍矛盾問題があおられる傾向にある。それは急進的な独立思想を持つ[[陳水扁]]が総統となるとその傾向は顕著になり、中華風の名称を台湾的なものに改める[[台湾正名運動]]を初めとする施政が外省人のアイデンティティーを脅した結果台湾人意識を共有し始めた外省人が圧迫感を抱き、より固定的な投票行動を取るようになった。 == 省籍矛盾の行方 == 政権党となってからは若干そのような色彩を弱めているものの、かつて[[民主進歩党|民進党]]は野党の時代に選挙戦術として省籍矛盾を煽り立てることで本省人への支持を訴える方法をよく用いた。また[[台湾団結連盟]]のように本土意識の強い政党では、現在でも選挙の際に同様の戦術を用いることが知られている。 <!--さらに、民進党が政権党となった現在では、逆に[[中国国民党|国民党]]や[[親民党]]など外省人に支持者の多い政党を中心に、選挙の際に省籍矛盾を煽り立てることで外省人間の結束を訴えるようなケースも見受けられるようである。 (・・・と、以前私が書いた部分を全く逆の方向に直された人の意見も盛り込む形で書き直してはみたが、考えた末とりあえずはコメントアウト。理由は事実関係の確認が取れないことと、実際問題として人口に占める割合の少ない外省人だけ相手にしていたのでは、国民党にしろ親民党にしろ勢力を伸ばすことができずにかえって先細りとなるため、両党ともこのように戦術としては極めてマイナス面の多い「外省人」の結束などという挙に出るとは思えないから。どちらの党にしろ、既存の外省人勢力の支持を温存しつつ、いかにして本省人勢力を取り込むのかというのが目下の重要課題であり、そこに省籍矛盾を持ち出す余地はないのではないか?という疑問がどうしても残る。このあたりのことに詳しい方、どなたかこの部分について書き直していただければと思います。ここで言いたいことは、今でも台湾人にとって省籍矛盾を意識する機会が多いね、ということであり、思想的にどちらか(本省人寄り、外省人寄り)に偏向させるつもりはまったくありません。)--> このように、以前に比べ台湾の人々の省籍矛盾に対する意識は相当程度薄まってきているとはいえ、台湾社会において、人々が日常生活の中で意図するとしないとに係らず、省籍矛盾を意識する機会は依然として多いといえる。今後台湾の人々の間で「省籍矛盾」という言葉が歴史的なものへと変わるには、なお多くの時間を要するものと思われる。 == 参考文献 == *若林正丈ほか編著『台湾百科・第二版』大修館書店、1995年、ISBN 4469230928 *読売新聞社台湾取材団編『台湾はどこへ行くか 平和革命と自立への挑戦』亜紀書房、1995年、ISBN 4750595136 *高橋晋一著『台湾 美麗島の人と暮らし再発見』三修社、1997年、ISBN 4384010753 *若林正丈著『台湾 変容し躊躇するアイデンティティ』筑摩書房(新書)、2001年、ISBN 4480059180 *本田善彦著『台湾総統列伝』中央公論新社、2004年、ISBN 4121501322 == 関連項目 == *[[本省人]] *[[外省人]] *[[在台ベトナム人]] *[[二・二八事件]] *[[美麗島事件]] [[Category:台湾の社会|しようせきむしゆん]]
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