益州

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益州(えきしゅう)は中国にかつて存在した州。現在の四川盆地漢中盆地一帯を指す。

先秦時代

殷代には巴人と蜀人の居住地であった。近年、四川省徳陽市広漢市三星堆遺跡が発掘され、3,4千年前にこの地に存在した古代文明の存在が明らかになった。戦国末期が巴と蜀を滅ぼすとこの地に巴郡及び蜀郡が設置された。

秦漢時代

元封5年(紀元前106年)、前漢武帝は全国を13刺史部に分割した際、雍州の一部に益州を設置した。

前漢末には軍閥の公孫述が益州を占拠したが、光武帝に攻め滅ぼされている。

魏晋南北朝時代

三国時代には劉備が益州を占拠し(蜀漢)を建国したが、に攻め滅ぼされた。263年景元4年)には州北部に梁州が、271年泰始 (晋)7年)には西晋により州南部に寧州が設置され、益州の管轄区域は大幅に縮小されている。

五胡十六国時代には李特により益州において成漢が建国されたが、東晋により攻め滅ぼされた。その後譙縦が益州で反乱を起こし、後蜀を号したが、まもなく鎮圧された。

隋代

隋朝が成立すると当初は益州が設置され7郡19県を管轄した。582年開皇2年)の新州玄武郡の廃止に伴い、その管轄県であった伍城県が益州に移管されている。607年(大業3年)、郡制施行に伴い益州は蜀郡と改称され下部に13県を管轄した。隋朝の行政区分に関しては下図を参照。

隋朝の行政区画変遷
区分 開皇元年 区分 大業3年
益州 新州 蜀郡
蜀郡 犍為郡 九隴郡 広漢郡 晋熙郡 金泉郡 武康郡 玄武郡 成都県 郫県
双流県 新津県
晋原県 清城県
九隴県 雒県
綿竹県 金泉県
陽安県 平泉県
玄武県
成都県
温江県
郫県
新繁県
広都県
僰道県
新津県
晋原県
清城県
九隴県
青陽県
隴泉県
興固県
雒県
新都県
陽泉県 金泉県 陽安県
婆閏県
伍城県

唐代以降

唐朝が成立すると618年武徳元年)、蜀郡は益州と改称されたが、627年貞観元年に郡制が施行された際に蜀郡に再度改称され、その後は短期間を除き益州の名称は使用されていない[1]

関連項目

脚注

  1. 宋代の981年太平興国6年)から988年端拱元年)まで及び994年淳化5年)から1060年嘉祐5年)まで益州の名称が使用されている

テンプレート:漢朝の行政区分 テンプレート:隋朝の行政区分