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'''申 耽'''(しん たん、生没年不詳)は、[[中国]][[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]の軍人。[[申儀]]の兄。[[字]]は'''義挙'''。 [[漢中]]の豪族の一人で、民政にはなかなか有能な人物だったことから、[[張魯]]や[[曹操]]に認められてその家臣となっていた。[[219年]]、[[劉備]]が漢中に侵攻し曹操が撤退すると、周辺地域に劉備の勢力が及ぶようになり、[[上庸]]もその標的となったため、申耽は[[劉封]]と[[孟達]]の軍勢に降った。このとき、征北将軍に任じられている。 [[220年]]、孟達が寝返った際には弟の申儀と異なり劉封に味方したが、劉封が上庸から敗走すると、再び曹操に降伏した。その後、上庸の地からは遠ざけられ、懐集将軍に任じられて[[南陽]]の守備を任された。孟達反乱の際の動向は伝わっていない。 弟の申儀は西城[[太守]]であったが、西城・房陵・上庸が新城郡に統合されると魏興[[太守]]に転じ、辺境の地であることをいいことに、詔書を偽造するなど勝手な振る舞いをしていた。孟達反乱の際は孟達の叛意を密告し、[[司馬懿]]の孟達征伐の際には蜀からの進入路を防ぎ、孟達を滅ぼすことに貢献したものの、まもなく自身の傍若無人な振る舞いをも咎められ、詔書偽造の罪で中央に召喚された。 小説『[[三国志演義]]』では、孟達が劉封を攻撃した際、弟の申儀と共に劉封から離反し、追放するのに加担している。さらに[[蜀]]の[[北伐]]時には、蜀側が優勢と見て[[魏 (三国)|魏]]を裏切ろうとした孟達を反対に裏切って、司馬懿と共に攻め殺したことになっている。 [[Category:三国志の登場人物|しん たん]]
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