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'''王平'''(おうへい) * (?-248)[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[蜀漢]]の将軍。本項で解説する。 * (1907-1998)[[中国共産党]]の将軍。[[長征]]をはじめとする[[国共内戦]]や[[日中戦争]]で戦功を挙げた。[[中国共産党中央軍事委員会|中央軍委]]副秘書長に至った。[[王平 (上将)]]を参照。 * (1908-1940)[[日本統治時代の朝鮮]]の作詞家・劇作家・俳優。本名は李応浩。代表作に「港口の一夜」。公演中に舞台の上で倒れて死去した。 ---- '''王 平'''(おう へい、?-[[248年]])は、中国[[後漢]]末期から三国時代の軍人。字は'''子均'''。一時期、母方の姓を用いて'''何平'''と名乗ったこともある。[[益州]]巴西郡宕渠県(現在の[[達州市]])の人。異民族の板循蛮の出身といわれる。子は王訓([[嫡子]])。 == 略歴 == もと母方の何氏に養育されていたが、後に王姓に戻った。 [[曹操]]が[[漢中]]に侵攻して[[張魯]]を降した際、恭順した異民族の指導者である杜濩・朴胡に伴い曹操に帰順し、[[洛陽]]に赴き[[校尉]]の位を与えられていたが、[[218年]] - [[219年]]の[[定軍山の戦い]]を含んだ一連の漢中攻防戦の際に[[劉備]]軍へ降り、牙門将・裨将軍に任命された。以降は蜀漢に仕えている。 [[諸葛亮]]の[[北伐]]にも従軍し戦功を挙げた。特に王平の名を高めたのは[[街亭の戦い]]で、王平は諸葛亮から[[馬謖]]軍の先鋒を命じられ、馬謖が山上に布陣しようとするのを何度も諌めた。しかし馬謖が王平の諌言を聞き入れなかったため、結果として[[魏 (三国)|魏]]軍に大敗を喫した。しかし、王平の指揮する部隊1,000が踏み留まって陣太鼓を打ち鳴らし踏み堪えたため、魏軍を率いていた[[張コウ|張郃]]は伏兵の存在を疑って近づこうとはしなかった。敵が追撃の手を緩めたところで、彼は徐々に諸営の残留兵を収容し、将兵を率いて帰還した。これにより蜀軍は全滅を免れることができた。馬謖及びその配下の武将がいずれも軍令違反で処罰されたが、王平だけはこの時の功績により特別に敬意が払われた。参軍・討寇将軍の地位を与えられ、五部の兵を統率することを許可されると共に、亭侯に封じられている。 [[231年]]、諸葛亮が祁山に出陣した際、王平は別働隊を率いて山の南を守備した。この時、[[司馬懿]]が諸葛亮の軍を、張郃が王平の軍を攻撃したが、王平は堅守して張郃軍を撃退している<ref>『[[漢晋春秋]]』によれば、諸葛亮は魏延・[[呉班]]・[[高翔]]を派遣して司馬懿を撃退し、敵の首級を三千・鎧を五千・[[弩]]を三千百獲得した。</ref>。 [[234年]]、諸葛亮が[[五丈原]]で魏軍と対陣中に没すると、[[楊儀]]は諸葛亮の遺言に従い全軍撤退を命じた。ところが、かねてから楊儀と不仲であった[[魏延]]が撤退命令に従わず、楊儀討伐の兵を挙げるという事態が起きてしまった。この時、王平は楊儀の先鋒となり、魏延配下の兵士に向かって「公(諸葛亮)が亡くなり、その身もまだ冷たくならない内に、お前たちはなぜこんな事をしようとするのか」と一喝した(『蜀書』魏延伝)。魏延の兵士たちがこれを聴くと、魏延を見捨てて逃げ去ったため、楊儀は難なく魏延を討ち取ることに成功した。[[陳寿]]はこの時の戦いを「一戦して(魏延を)破りこれを平らげたのは、王平の功績である」と、称賛している。 撤退後は後典軍・安漢将軍に昇進し、[[呉懿]]の副将として漢中に駐屯した。また、漢中[[太守]]を兼任した。[[237年]]に呉懿が死去すると、後任として漢中方面の守備を任され、安漢侯に封じられた。その後も、前監軍・鎮北[[大将軍]]に昇進し、漢中の軍事・行政を一任された。[[244年]]、魏の[[曹爽]]が10万の大軍を率い侵攻してきたが、王平は興勢山に出撃してこれを迎え撃ち、[[費イ|費禕]]の援軍が到着するまで時間を稼ぎ、撃退することに成功した。このころ[[トウ芝|鄧芝]]と[[馬忠 (蜀漢)|馬忠]]がそれぞれ蜀の東と南を防備していたが、王平の名声は彼らと並び称されるほどであった。また『[[華陽国志]]』によると、同郡出身の[[句扶]]や後任の大将軍である[[張翼]]・[[廖化]]と並んで、賞賛されていたとある。 248年に病死し、嫡子が後を継いだ。 陳寿は、王平伝で「長らく軍旅にあったため文章が書けず、知っている字は10字に満たなかったが、口述筆記させた文章は道理に適っていた。『[[史記]]』・『[[漢書]]』を人に読んでもらいその大略を掴み、論じては要旨を捉えていた。法律を忠実に履行し、戯言を口にせず、終日端座するという武将らしからぬ様子であった。然しながら性格が偏狭で疑い深く、軽はずみな人柄であったため、それが欠点となっていた。(中略)忠勇にして厳整な人物であった」と評する<ref>「平生長戎旅、手不能書、其所識不過十字、而口授作書、皆有意理。使人讀史・漢諸紀傳、聽之、備知其大義、往往論説不失其指。遵履法度、言不戲謔、從朝至夕、端坐徹日、[忄畫]無武將之體、(中略)評曰・・・王平忠勇而嚴整」。なお、中略部分につきノートも参照。</ref>。 小説『[[三国志演義]]』では、漢中攻防戦に際して、漢中の地理に詳しいということで曹操から郷導使に任命されるも、[[徐晃]]と仲違いし殺されかけたため劉備に降り、以後蜀の武将として仕えたことになっている。また[[南蛮]]戦(南征)でも活躍している。諸葛亮は臨終の時、忠義の士として廖化や[[馬岱]]らとともに王平の名前も挙げている。 南充市高坪区に墓所が残る。[[清]]の[[光緒]]年間に墓碑が建てられ「漢将軍王平之墓」と記された。地級文物保護単位。 == 注釈 == <references/> == 伝記資料 == * 『[[三国志]]』巻43「蜀書」13 {{DEFAULTSORT:おう へい}} [[Category:三国志の登場人物]] [[Category:蜀漢の人物]] [[Category:生年不明]] [[Category:248年没]]
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