熊代昭彦

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テンプレート:政治家 熊代 昭彦(くましろ あきひこ、1940年2月21日 ‐ )は、日本政治家厚生官僚市民の党「自由と責任」代表、岡山維新の会幹事長。

衆議院議員(4期)、内閣府副大臣内閣総理大臣補佐官第1次小泉内閣第1次小泉第1次改造内閣)、岡山市議会議員(1期途中で辞職)等を歴任した。

来歴

岡山県津高郡一宮村尾上(現・岡山市北区尾上)の農家に生まれる。岡山県立岡山操山高等学校東京大学法学部卒業。1963年厚生省(現・厚生労働省)に入省。厚生省では年金局資金課長、大臣官房総務審議官、援護局長等を務める。1969年ウィスコンシン大学大学院に留学し、政治学修士号を取得。

岡山県選出の衆議院議員橋本龍太郎に見いだされ、1993年7月に厚生省を退官。第40回衆議院議員総選挙大村襄治の後継者として自民党公認で旧岡山県第1区(定数5)から出馬。同区最下位ながら初当選を果たした。以後当選4回[1]厚生族議員である。小渕派→橋本派に所属し、橋本の側近として活動。2003年自由民主党総裁選挙では小泉純一郎を支持するか否かで平成研究会の対応が決まらない中、いったん総裁選に出馬表明を行うが、20人の推薦人を集められず、出馬を断念した。

2001年第1次小泉内閣内閣府副大臣に就任し、行政改革担当の内閣総理大臣補佐官にも任命された。内閣府副大臣、首相補佐官のいずれも第1次小泉第1次改造内閣まで務める。

2005年7月、首相の小泉が成立に執念を燃やす郵政民営化法案の衆議院本会議採決で反対票を投じた。そのため郵政解散による第44回衆議院議員総選挙では自民党の公認を得られず、自民党は岡山市長の萩原誠司を熊代の選出選挙区である岡山県第2区で公認した。熊代は8月に総選挙出馬を断念し、萩原の辞職に伴う岡山市長選挙に鞍替えして出馬するが、高谷茂男に敗れた。

その後国民新党に入党し、2007年第21回参議院議員通常選挙に同党公認で比例区から出馬したが、落選した。2008年6月に国民新党を離党し、次期総選挙に無所属で出馬する意向を表明。2009年第45回衆議院議員総選挙に岡山2区から無所属で出馬するが、民主党津村啓介、自民党の萩原の後塵を拝し、3位で落選した。

2010年10月には地域政党市民の党「自由と責任」を結党し、自ら代表に就任した。2011年4月に行われた岡山市議会議員選挙に中区選挙区から出馬し[2]、6917票を獲得しトップ当選した[3]2012年2月14日、大阪維新の会に呼応して結成された岡山維新の会の幹事長に就任した。

2013年5月、同年10月に投開票が行われる岡山市長選挙への立候補を表明し[4]、同年9月に辞職。10月6日に実施された岡山市長選挙に無所属で立候補したが、当選者の大森雅夫、2位の高井崇志の後塵を拝し3位で落選。投票日直前に投票を依頼する文書を市内の多数の町内会長に郵送したとして、公職選挙法違反(法定外文書頒布)の疑いで、陣営幹部2人とともに岡山県警察によって12月6日付で書類送検された[5]

略歴

政策・主張

人物

脚注

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関連項目

外部リンク

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|-style="text-align:center"

|style="width:30%"|先代:
仲村正治
松下忠洋
村田吉隆 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 内閣府副大臣
松下忠洋村田吉隆と共同

2002 |style="width:30%"|次代:
伊藤達也
根本匠
米田建三

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    1. 当選同期に安倍晋三田中眞紀子岸田文雄塩崎恭久野田聖子浜田靖一山岡賢次江崎鉄磨などがいる。
    2. 「身近な所から改革」70歳元副大臣が岡山市議選出馬へ(朝日新聞、2011年2月7日)
    3. ザ選挙 - 岡山市議会議員選挙岡山市中区選挙区
    4. 熊代氏が岡山市長選へ出馬表明 「改革で大都会に」(山陽新聞、2013年5月25日)
    5. 元岡山市議の熊代氏ら書類送検 市長選で無届け文書郵送の疑い(山陽新聞、2013年12月10日)
    6. 野田聖子「選択的夫婦別姓制度」2001年11月6日