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桂枝雀
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'''桂 枝雀'''(かつら しじゃく)は[[上方落語]]の[[名跡]]。2代目の死後は空き名跡となっている。 なお、以下の各代以外にも、[[昭和]]10年代の寄席ビラに枝雀の名が確認できる。色物だったとされているが詳細は不明。 #'''初代 桂枝雀'''([[1862年]] - [[1928年]][[11月22日]])は、本項を参照。 #'''[[桂枝雀 (2代目)|2代目 桂枝雀]]'''([[1939年]][[8月13日]] - [[1999年]][[4月19日]])は、[[桂米朝 (3代目)|3代目桂米朝]]門下。前名は[[桂小米|10代目桂小米]]。本名: 前田達。享年59。 == 初代 == '''初代 桂枝雀'''([[1862年]] - [[1928年]][[11月22日]])は、本名: 入江清吉。[[享年]]66。 大阪の足袋商「古滿屋」の子として生まれ、家業を継ぐ傍ら、[[地歌]]や[[舞踊]]の稽古に通う。後、友人の勧めで、上町にあった[[天狗連|素人落語]]の「緑連」に加わり、喜代丸を名乗る。[[1884年]]11月、[[桂文枝|2代目桂文枝]](後の[[桂文左衛門]])に入門し、枝雀を名乗り、生涯変えなかった。 [[桂派]]が凋落の一途をたどる中、[[桂仁左衛門]]([[桂南光|2代目桂南光]])、[[桂文三 (3代目)|3代目桂文三]]らと共に同派を良く支える。仁左衛門の死後は、[[1912年]]に[[笑福亭松鶴#4代目|4代目笑福亭松鶴]]らと共に自身の名にちなんで[[寿々女会]]を組織するも、本人は出演せず。間もなく当時の[[元号]]にちなみ[[大正派]]を立ち上げ、[[船場 (大阪市)|平野町]][[第一此花館]]を本拠とするが、[[1916年]]に解散。その後すぐ[[新桂派]]を結成するが、2年と持たなかった。その後、[[浪花落語反対派|反対派]]に加入。[[1926年]]頃に引退。 痩躯に[[天然痘|あばた面]]、片目が不自由といった風体だったが、笑いの多い愛嬌ある高座で、桂派でも一番の人気者だった。[[三友派]]の[[桂米喬 (2代目)|2代目桂米喬]]と共に、[[桂春團治|初代桂春團治]]出現以前の爆笑王として名を馳せた。十八番は『[[尻餅 (落語)|尻餅]]』『[[借家怪談]]』『[[野崎参り]]』『[[稽古屋]]』など。音曲も独特なもので、一席終えた後、「フェー」といった奇声を発してから、大津絵節などを聴かせたという。 引退後は[[東大阪市]]の[[布施 (東大阪市)|布施]]に住み、平穏な余生を過ごした。同業者との連絡は一切絶っていたため、死期も分からず仕舞だったという。 [[SPレコード]]は明治末から大正にかけて多く残されている。何故かジャケットレーベルは「桂雀枝」「桂文雀」「桂芝雀」等の名で吹き込まれている。[[小噺]]が多い。 弟子には[[桂小文枝#2代目|2代目桂小文枝]]、[[桂萬光#3代目|3代目桂萬光]]、[[桂談枝|2代目桂談枝]]らがいる。 == 出典 == 『古今東西落語家事典』(平凡社、1989年) {{デフォルトソート:かつら ししやく}} [[Category:落語の名跡]] [[Category:落語家]]
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