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[[ファイル:Sihei.jpg|200px|right|thumb|林子平肖像([[大槻盤渓]]賛)]] [[ファイル:Hayashi_Shihei_bronze.jpg|thumb|150px|right|林子平 銅像]] [[ファイル:Hayashi_Shihei_Grave.jpg|thumb|200px|仙台市龍雲院にある林子平の墓]] '''林 子平'''(はやし しへい、[[元文]]3年[[6月21日 (旧暦)|6月21日]]([[1738年]][[8月6日]]) - [[寛政]]5年[[6月21日 (旧暦)|6月21日]]([[1793年]][[7月28日]]))は、[[江戸時代]]後期の[[経世論]]家。 [[高山彦九郎]]・[[蒲生君平]]と共に、「[[寛政の三奇人]]」の一人。名は友直。のちに六無齋主人と号した。 == 経歴・人物 == [[元文]]3年([[1738年]])、[[幕臣]][[岡村良通]]の次男として[[江戸]]に生まれる。父の岡村良通は徳川氏の[[御書物奉行]](620石)として仕えていたが、子平が3歳の頃、故あって浪人の身となり、家族を弟の[[林従吾]](林道明)に預け諸国放浪の旅に出た。そのため、子平の兄弟は、開業医の叔父の林従吾のもとで養われる。 まもなく、姉のなお(きよ)は仙台藩の江戸屋敷に奉公するようになり、仙台藩5代藩主[[伊達吉村]]の侍女として仕えた。なお(きよ)はその容姿と心ばえが吉村に愛され、やがて、仙台藩6代藩主となる[[伊達宗村 (仙台藩主)|伊達宗村]]の側室に抜擢され、[[お清の方]]と呼ばれるようになった。お清の方は一男一女を授かり、男子はのちの三河[[刈谷藩]]主[[土井利信]]の養嗣子となる[[土井利置]]、女子は出雲[[松江藩]]主[[松平治郷]]の正妻となる[[方子]](青楽院)である。 お清の方の縁で、養父の林従吾が[[仙台藩]]の禄を受けるようになった。従吾没後、兄の[[林友諒]]が封を継ぎ、宝暦6年(1756年)正式に仙台藩士として150石が下された。しかし、この年の5月に宗村が死去すると、友諒は家族を引き連れ、仙台川内に移住した。子平は部屋住みの身で妻子は持たなかったが、仙台藩士として生活するようになった。 子平はみずからの教育政策や経済政策を進言するが聞き入れられず、禄を返上して藩医であった兄友諒の部屋住みとなり、北は[[松前]]から南は長崎まで全国を行脚する。長崎や江戸で学び、[[大槻玄沢]]、[[宇田川玄随]]、[[桂川甫周]]、[[工藤平助]]らと交友する。[[ロシア帝国|ロシア]]の脅威を説き、『[[三国通覧図説]]』『[[海国兵談]]』などの著作を著し「およそ日本橋よりして欧羅巴に至る、その間一水路のみ」と喝破して当時の人びとを驚かせた。『海国兵談』の序を書いたのは、仙台藩医工藤平助であった。また『富国策』では藩の家老佐藤伊賀にあて藩政について説いたが、採用はされなかった。 『海国兵談』は海防の必要性を説く軍事書であったため、出版に協力してくれる版元を見つけることができなかった。そこで子平は、16巻・3分冊もの大著を自ら版木を彫り、自費出版で須原屋市兵衛から刊行した。『海国兵談』は[[寛政]]3年([[1791年]])、仙台で上梓された。しかし幕閣以外の者が幕政に容喙するのはご法度であり、両著はともに発禁処分が下され、『海国兵談』は版木没収の処分を受けることとなった。しかしその後も自ら書写本を作り、それがさらに書写本を生むなどして後に伝えられた。 最終的に、仙台の兄友諒の許へと強制的に帰郷させられた上に蟄居に処される。蟄居中、その心境を「親も無し 妻無し子無し版木無し 金も無けれど死にたくも無し」と嘆き、自ら六無斎(ろくむさい)と号した。 [[寛政]]5年[[6月21日 (旧暦)|6月21日]]([[1793年]][[7月28日]]))死去。享年56。 『三国通覧図説』はその後、長崎よりオランダ、ドイツへと渡り、ロシアでヨーロッパ各国語版に翻訳された。地図は正確性ではなく、本州・四国・九州以外の地域はかなり杜撰に描かれているものであった。 [[大韓民国|韓国]]及び[[中華人民共和国|中国]]において、一部の研究者はこのドイツ語版もしくはフランス語版が、[[マシュー・カルブレイス・ペリー|ペリー]]提督との[[小笠原諸島]]領有に関する日米交渉の際に、日本の領有権を示す証拠として使用されたと主張している。 [[大韓民国|韓国]]ではこれを、同国の[[竹島 (島根県)|竹島]]・[[対馬]]領有権の証拠と主張し、[[中華人民共和国|中国]]ではこれを、同国の[[尖閣諸島]]領有権の証拠と主張している。 しかし、19世紀に日米間で[[小笠原諸島]]の領有権を争った事実はなく、日米両国にそういった記録は存在していない。『三国通覧図説』が小笠原諸島領有における日米交渉に使われたという話は『[[河北新報]]』に掲載された林子平を題材とする新聞小説が元ネタである<ref>[http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima08/2007/record200807.html Web竹島問題研究所] 島根県ホームページ</ref>という説もある。 林子平の墓は仙台市[[青葉区 (仙台市)|青葉区]]にある[[龍雲院]]にあるが、その龍雲院の所在地は[[1967年]]([[昭和]]42年)の住居表示の際にそれまでの半子町から、墓があることに因み'''子平町'''と改称されている。 [[高山彦九郎]]・[[蒲生君平]]ともに「[[寛政の三奇人]]」と称された。 ==系譜== *父:[[岡村良道]] *母:不詳 *養父:[[林従吾]](林道明) **姉:なよ **姉:なお(きよ)仙台藩5代藩主[[伊達吉村]]の侍女として仕え、のちに仙台藩6代藩主[[伊達宗村 (仙台藩主)|伊達宗村]]の側室となり[[お清の方]]と呼ばれた。 **兄:[[林友諒]](林嘉善) **妹:多智 == 脚注 == <references/> ==全集== *『新編林子平全集』全5巻 [[山岸徳平]],[[佐野正巳]]共編 第一書房 1978-80 *『林子平全集』全2巻 [[山本饒]]編 生活社 1943-44 == 林子平が登場する作品 == *[[みなもと太郎]]「[[風雲児たち]]」 *Lederer, Friedrich (Transl.,Ed.), ''Diskurs über die Wehrhaftigkeit einer Seenation'' (''Kaikoku Heidan''), Munich, Iudicium, 2003 (First translation of this work in a foreign language) *[[植松三十里]]『彫残二人』中央公論新社 2008 [[中山義秀文学賞]]受賞作品 ==関連書籍== *[[平重道]]『林子平 その人と思想』宝文館出版、1977 *[[永田衡吉]]編『林子平』大日本雄辯會講談社 1943 *中居光男『先哲林子平先生の生涯』林子平先生二〇〇年顕彰実行委員会 1992 *『林子平展 その生涯と思想 企画展図録』仙台市博物館 1992 == 備考・エピソード == *[[ハヤシライス]]を発明した人物は、子平の子孫(実質的には子平の姉の子孫)である、とする説もある。 *子平の号六無斎にあやかって、五無斎([[保科百助]])、八無斎([[原田大六]])と号した人物がいる。 == 関連項目 == * [[海防論]] * [[須原屋市兵衛]] * [[河野通有]] == 外部リンク == *[http://kambun.jp/kambun/saitochiku-hayashi-yaku.htm 林子平伝(斎藤竹堂)現代語訳] *[http://www.iudicium.de iudicium verlag, München] {{デフォルトソート:はやし しへい}} [[Category:経世論の人物]] [[Category:18世紀の学者]] [[Category:仙台藩士]] [[Category:武蔵国の人物]] [[Category:林氏|しへい]] [[Category:1738年生]] [[Category:1793年没]]
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